1970年代の法大、80年代のロッテで捕手として活躍した袴田英利氏が2月8日に脳出血で急死していたことが分かった。69歳だった。 
ロッテでの現役時代は、エース・村田兆治投手[右]から絶大な信頼を得ていた袴田捕手[写真=BBM]
袴田氏は自動車工高から法大に進学すると同期の
江川卓投手らとともにチームを引っ張り、1976年から77年にかけてリーグ4連覇を達成。法大黄金時代を築き上げた主力選手の1人だった。
77年秋のドラフトで江川投手の「外れ1位」でロッテに指名され、入団。プロでは正捕手の座をつかむのに少々時間がかかったが堅実なリードには定評があり、84、85年と2年連続で規定打席に到達するなど、パ・リーグを代表する捕手となった。
85年に「サンデー兆治」で復活したエース・村田兆治投手とは名バッテリーとして知られ、マサカリ投法から投じられるフォークをノーサインで捕球したとの“伝説”がある。さらに、90年限りで村田投手が現役引退した際、「俺の捕手はお前しかいない。だからお前も一緒に引退するんだ」と村田投手が袴田氏に引退まで“強要”したという逸話も。現役時代の通算成績は実働13年で911試合出場、打率.231(519安打)、38本塁打、231打点。

1980年のロッテオリオンズの本塁を守り抜いた袴田捕手[写真=BBM]
引退後は2012年まで22年間にわたり、ロッテの一、二軍でバッテリーコーチ、チーフコーチなどを歴任。2年間だけスカウトを務めた時期もある。その後は14年から2年間は
西武のコーチに就任し、新人捕手だった
森友哉(現
オリックス)を育てた。16年から17年まではBCL/武蔵でもヘッドコーチを務め、近年は村田氏のライフワークだった離島での野球指導にも携わっていた。

4月3日のオリックス戦[ZOZOマリン]の試合前、ロッテの選手たちは偉大なOBに黙祷した[写真=古賀恒雄]
温厚な人柄でどこのチームでも周囲から慕われた袴田氏。今ごろは22年に亡くなった村田氏と再会を果たし、「来るのが早いぞ!」と怒られているに違いない――。