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ENEOS・田澤純一が退団 最後のユニフォーム姿で見せた決意 39歳の尽きない情熱「準備をしっかりとすれば、もうひとつ、まだできる」

 

かつて在籍したレッドソックスでは世界一も経験した右腕が、慣れ親しんだENEOSでのプレーに一区切りをつけた。オファーがあれば、どこでもまだ投げる。白球への熱い思いは衰えていない。
取材・文=佐々木亨

2022年9月、ENEOSに復帰。現役選手を続けてきた会社への感謝を忘れることはない[写真=佐々木亨]


他人にはできない道


 ENEOSのユニフォームで挑む最後の公式戦で、田澤純一はブルペンで待機していた。10月8日に行われた秋季神奈川県企業大会の三菱重工East戦。9回二死からマウンドに上がる予定だったが、わずか2点差の接戦だ。結局は、田澤の登板機会がないままにENEOSの勝利で試合は終わった。人影がまばらな川崎市の等々力球場には、静けさが漂っていた。

「残念でしたけど、それはそれで、ENEOSかなと思いますし……」

 強く、厳しく、常勝を義務づけられているような歴史あるENEOSでの最後の時間を、田澤はそう言って噛みしめた。

 今年で39歳となった田澤が、横浜商大高から新日本石油ENEOSに入社したのは2005年のことだった。4年目の08年には、エースとして都市対抗野球大会優勝。全5試合に登板して4勝を挙げた右腕は、最優秀選手賞にあたる橋戸賞を手にした。その年、日本プロ野球のドラフト上位候補に名を連ねたが、メジャー挑戦への想いを貫いた田澤は翌09年にレッドソックスに入団。13年には、セットアッパーとしてワールドシリーズ優勝に貢献した。その後、36歳となった22年9月、再びENEOSのユニフォームに袖を通した。コーチ兼投手として社会人野球の舞台に帰ってきた田澤は、度重なる故障に苦しみながらも、24年の都市対抗1回戦(対東海理化)で東京ドームのマウンドに立った。黒獅子旗を手にした08年以来、実に16年ぶりの登板だった。

 ENEOSの監督として、現在はチームディレクターという立場で田澤を支え、見守り続けてきた大久保秀昭氏(慶大)が、かつての記憶をたどる。

「田澤は2008年の都市対抗優勝の立役者。チームとして、しばらく勝てない時期があった中で、救世主となってくれたことは間違いない」

 社会人野球からメジャーへ。当時、日本で実績を残したドラフト上位候補の選手が、NPBを経由せずに海を渡ることに対して賛否両論があった。「田澤問題」「田澤ルール」といった言葉が飛び交う中で世間は騒ぎ立てた。アメリカへ渡ってからの田澤は、決して順風満帆ではなかった。トミー・ジョン手術を受け、過酷なリハビリ期間も経験。他人には言えない孤独感があっただろう。結果がともなわずに、歯痒い自分と戦い続けた時期もあっただろうか。それでも、メジャーで中継ぎというポジションを築いた。大久保氏は言う。

「彼は、他人にはできない道を歩んできた。すごい野球人生を歩んできたと思います。孤独感を味わいながら、メジャーで頂点を極めたり、ENEOSに復帰して以降は故障もありながら……それでも『打たれたら悔しい』という思いを持ってやり続けた。そこは尊敬しますし、素晴らしいことだと思います」

2024年、東海理化との都市対抗1回戦で救援登板。9回の1イニングを無失点に抑えた[写真=福地和男]


打たれたら悔しい


 孤独に耐え、挑み続けてきた野球人生。ENEOSでのプレーが最後となった今年も、田澤は登板機会に向けて準備だけは怠らなかった。都市対抗の本大会直前である8月中旬、東京ガスとの練習試合では1イニングほどのマウンドで、目一杯に右腕を振り抜く田澤がいた。打者を打ち取ってもなお、首を横に振る。投球内容に不満があれば、その反省と悔しさを表情に出す姿が印象的だった。「打たれたら悔しい」。その思いは、40歳を手前にした今もなお、田澤の奥底に横たわる。だからこそ、彼は投げ続ける。

 今年の最初で最後となった公式戦での登板は、10月7日の秋季神奈川県企業大会。等々力球場での東芝戦だった。6回表に二番手としてマウンドに上がった田澤は、打者5人に対して24球。1安打1四球を与えたが、1イニングを無失点に抑えて、その後のサヨナラ勝利につなげた。東芝を率いるのは、田澤の3学年上にあたる大河原正人監督(亜大)である。現役時代の大河原監督は、右のスラッガーとして鳴らした。入社2年目の07年には都市対抗優勝を経験。当時は都市対抗の推薦出場がなかったために、東芝は翌08年の都市対抗神奈川二次予選に出場するのだが、そこで相対した田澤の姿を、大河原監督は今でも鮮明に記憶している。

「最後の第三代表決定戦で、新日本石油ENEOSはストッパーで田澤投手を出してきたんです。当時、私は四番だったのですが、田澤投手の前に三振。その年、東芝は本大会出場を逃しました。すでにENEOSのエースとなっていた田澤投手のボールは本当に強かったのを覚えています」

 17年の時を経て、監督という立場でマウンドの田澤を見て、大河原監督は「懐かしさ」を感じたという。

「試合中で、対戦相手でしたけど、どこか懐かしいなあと思いながら、マウンドに立つ彼の姿を見て感慨深いものがありました」

マウンドへ挑む姿勢


 ENEOSから始まった社会人野球での人生。メジャーへ挑戦して、再びENEOSのユニフォームを着て、いま、その人生にひとつの区切りをつける。田澤は言うのだ。

「ENEOSに入ったから、アメリカに挑戦することができた。野球人生、そして僕の人生においても感謝しなければいけないと思っています。(ENEOSに)帰ってきてから、何ができたのかと言われれば、何もできなかったというのが正直なところで、海外でやってきたことも踏まえて、うまく伝えていければよかったというのが反省です。そこに関しては、申し訳ない気持ちがあります」

 多くのことと戦いながら、時には反省や課題と直面してきた。そして、いつの時代にもあった「悔しさ」が、田澤のエネルギーとなってきた。

「僕の野球人生は……その都度、自分なりに頑張ってきたつもりです。今回はこういう形でENEOSを退団しますが、次のステージに進みたいと思っています」

 マウンドに立ちたい。その情熱は消えない。

「まだ、打たれれば悔しい。そういうものがなくなったら野球を辞めるべきだと思っていますが、その思いがまだ僕の中に残っている」

 さらに、田澤が言葉を紡ぐ。

「年齢も年齢なので、良いときもあれば悪いときもある。ただ、準備をしっかりとすれば、もうひとつ、まだできるかなと思う自分がいる。ダメだと思えば、辞めるだけ。今は『やりたい気持ち』があるので、オファーがあれば野球を続けたい」

 形は変われども、田澤の「挑む」姿はこれからも変わらない。

PROFILE
たざわ・じゅんいち●1986年6月6日生まれ。神奈川県出身。180cm90kg。右投右打。横浜商大高から新日本石油ENEOS(現ENEOS)に入社。09年からレッドソックス、17年からはマーリンズ、エンゼルスなどでプレー。19年8月にレッズとマイナー契約を結んだが、20年3月に自由契約。同年7月にBCL/武蔵に入団。同年のNPBドラフトでは指名漏れ。21年は台湾、22年はメキシコでプレーし、22年9月にENEOS再加入。23年のアジア競技大会では侍ジャパン社会人代表として出場し、銅メダル。24年の都市対抗1回戦(対東海理化)で16年ぶりに登板。25年10月10日限りでENEOSを退団。MLB通算388試合、21勝26敗4セーブ89ホールド、防御率4.12。
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