週刊ベースボールは立大・長嶋茂雄氏が巨人に入団した1958年に創刊。10月22日発売号で通算4000号を迎えた。節目を記念したプロ野球レジェンドによる「週刊ベースボール4000号記念トークイベント」の第5弾が、12月10日に東京都内で行われた。往年のG戦士が熱きトークを繰り広げた。 取材・文=上原伸一 写真=兼村竜介 
末次氏、堀内氏、高田氏のトークイベントスペシャルカードの特大パネル前で写真撮影した
荒川道場で鍛錬
日本プロ野球史にさん然と輝く巨人軍栄光の9連覇。長嶋茂雄氏、
王貞治氏とともに「V9」の担い手になったのが
末次利光氏、
高田繁氏、そして
堀内恒夫氏だ。司会進行は日本テレビアナウンサーの村山喜彦氏が担当した。
最初のトークテーマは「V9の真実〜前人未踏の伝説 その表と裏〜」。V9が始まった1965年に入団したのが末次氏だった。中大時代にリーグ戦通算10本塁打を放ったスラッガーとして注目されていたが「なかなか一軍には定着できませんでした」。ライバルも多かったという。「当時の巨人は東映(現在の
日本ハム)の
吉田勝豊さんや近鉄の
関根潤三さんといった他球団の主力打者が毎年のようにトレードでやって来たので外野の層が厚かったんです」。
危機感を覚えた末次氏は、打撃コーチで王氏の「一本足打法の師匠」でもある
荒川博宅の近所に移り住み、連日「荒川道場」でバットを振り続けた。そのかいあって5年目の69年からライトのレギュラーに定着したが「自分がレギュラーだと思ったことはない。危機感はずっと持っていました」。たゆまぬ努力で71年の日本シリーズではMVPを獲得。一流選手の仲間入りを果たした。
堀内氏は末次氏入団の翌年に甲府商高からドラフト1位で巨人に入った。ドラフト1期生。初登板から開幕13連勝を含む16勝をマーク。新人王、沢村賞、最優秀防御率、最高勝率を手にする大活躍だった。翌年から背番号が「21」からエース番号の「18」へ。
藤田元司と同じ系譜である。通算200勝投手も、自身の評価には厳しい。「プロの世界はこんなものか……と思ってしまったので。それが野球選手としての成長を妨げてしまったような気がします」。
高田氏は4連覇を達成する68年にドラフト1位で入団。キャンプでチャンスをつかむと開幕2戦目で先発と、明大時代に当時の東京六大学リーグ最多127安打の実力を発揮したが、レギュラー定着には少し時間がかかった。1度だけ二軍落ちを経験。高田氏は「堀内君と一緒に飲みに行って、合宿所の門限を破ったのも原因かと……」と「優等生」のイメージらしからぬエピソードを披露。二軍降格は1カ月の予定も、
国松彰氏が自打球を当てて足を骨折したことから、急きょ3日で再昇格。6月に左翼のポジションをつかむと、以後は明け渡すことなく新人王に。日本シリーズではMVPに選ばれた。
5回二死で交代4度
巨人を9連覇に導いたのは現役時代、「打撃の神様」とうたわれた
川上哲治監督だった。
3人は「近寄り難い人だった」と口をそろえる。ただし、言葉で叱責することはほとんどなかったという。高田氏は「川上さんは寒い時期、ベンチに火鉢を持ち込むんですが、選手がふがいないプレーをすると持っている火箸でバチーンと火鉢をたたくんです」。すると末次氏は「川上さんは打者が甘いボールを見逃したときもバチーンと火鉢をたたくんですが、昔はいまのようなにぎやかな応援ではなかったので、その音が打席にいてもよく聞こえた」と続いた。ただ末次氏はこうも言った。「あの音が無言の叱咤(しった)になって私たちは育ててもらったんでしょう」。
川上監督のもう1つの「定番」が「貧乏ゆすり」だった。堀内氏は「あの原因は私と
高橋一三さんだと言われていました。川上監督はストライクが入らない投手が嫌いなんですが、高橋さんは3-1に私は3-2になることが多かったんです」と明かす。すると高田氏は「それが原因で10対0と大量リードだった5回二死の場面で交代させられたことがあったよね」とエピソードを披露。これに対し堀内氏は「あとアウト1つで勝ち投手になれる場面での交代はほかに3回あった。私は通算203勝ではなく、本当は207勝なんですよ」と会場の笑いを誘った。

約1時間30分にわたり展開された末次氏、高田氏、堀内氏のトークイベント。3人をよく知る日本テレビアナウンサー・村山喜彦氏[左端]が司会としてエピソードを引き出した
三塁転向1年目で栄冠
2番目のテーマは「ミスターの真実」〜語り継ぐ偉業と異業〜である。
五番起用が多かった末次氏が強調したのは、長嶋氏のすぐ後を打つ難しさ。「特に長嶋さんが本塁打を打った後の打席がそうでした。球場中が沸き返った余韻が残っていて、スタンドがザワザワしていましたから。ほとんど注目されていないなかで打つ寂しさもありました」。一方で長嶋氏は自分が四球で歩かされると必ず「スエ、頼むぞ」と声を掛けてくれた。「あの一言はものすごく大きな力になりましたし、ON砲を塁に置いて打ったときの喜びは格別でした」。
堀内氏は選手で9年、監督と選手で6年、監督とコーチで6年と計21年、長嶋氏と一緒にユニフォームを着た。仲人もやってもらったが、結婚披露宴では本来は新郎・新婦が主役のところ、その座を長嶋夫妻に持っていかれたという。「会見で記者が質問したのはもっぱら長嶋夫妻だったんです。初めての仲人というのもあったと思いますが、私たちはその質疑応答を聞いているだけで(笑)」
長嶋氏は現役時代「サイン見落としの常習犯」の一面もあったという。末次氏はあるシーンをよく覚えていた。「ある時、珍しく二死から長嶋さんにエンドランのサインが出ましてね。ところが胸の前で両手の人さし指を立てる簡単なサインを分かっていなかったのか、空振り三振に終わったんです。サインを出したサードコーチャーの
牧野茂さんが「シゲ、エンドランのサインに気が付かなかったのか?」と問いただすと長嶋さんは悪びれることなく「てっきり『2アウト』と伝えてくれたものかと」と返していましたね(笑)」。
高田氏は長嶋氏の第1期監督時代に三塁にコンバートされた。75年オフ、球団初の最下位になった巨人は日本ハムから強打者・
張本勲氏を補強。守備位置がかぶる高田氏は長嶋監督にトレードを願い出た。だが答えは「ノー」。告げられたのは「サードを守れ」だった。高田氏は「内野は子どものころから1度も経験がなかったんですよ。初めは断ったんですが、試合に出るには三塁に挑戦するしかないと覚悟しました」と回顧。すぐに多摩川の人工芝を敷いたグラウンドで猛練習が始まった。翌年から本拠地・後楽園球場が人工芝になるからだった。「現役を終えて間もない長嶋さんのノックはすさまじかったです」。自身が守った三塁への愛着がそうさせたのかもしれない。高田氏は三塁転向の1年目から2年連続でダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデン・グラブ賞)を受賞した。
第1期監督時代は血気盛んだった。「ベンチ裏にあった固定の灰皿を蹴飛ばして、親指を捻挫したことも。次の日はシューズの親指部分を切って、そこだけ出していました」(末次氏)。「怒りに任せてバットケースを殴って、次の日に包帯をしていたことも」(堀内氏)。
堀内氏は巨人がV9期間中の日本シリーズで圧倒的な強さを誇ったのは(最終戦までもつれたことが1度もない)、長嶋氏の力が大きかったと見ている。
「試合前の打撃練習でON砲が打ち始めると、パ・リーグの選手たちは目を輝かせて見ていましたし、特に長嶋さんの一挙手一投足に目を奪われていました。前回のWBCの決勝の前、
大谷翔平が『今日だけは(対戦相手のアメリカ代表の選手に)憧れるのはやめましょう』と言って鼓舞していたけど、これから試合をする選手をそういう目で見ていたら、それは勝てないですよ」
末次氏は短期決戦での長嶋氏にふだん以上に熱いものを感じていた。
「ものすごい執念。絶対にこの日本シリーズを取るぞ、という執念ですね。相手チームの下馬評が高い年もありましたが、あの執念にみんなが引っ張られたんだと思います」
巨人軍栄光の9連覇は、ミスタープロ野球の気合と根性の結集だった。