
170cmと小柄ながら浮き上がるようなストレートが武器。変化球はフォークのみだが、制球力がよかった
中日の投手として活躍し、引退後はタレントに転身して人気を集めた
板東英二氏が7月22日、慢性心不全で死去した。86歳で葬儀は家族で行った。
満州で生まれ、5歳のときに終戦を迎え、父親の故郷の徳島へ引き揚げてきた。中学から野球を始めて徳島商高へ進学。その名を一躍、全国に知らしめたのは1958年夏の甲子園。主将兼エースとして出場して決勝で敗れたものの、この大会で記録した83奪三振は現在も春夏を通じて甲子園1大会での奪三振最多記録だ。
卒業後に中日入団。2年目の60年から2年連続2ケタ勝利も以降は右肘痛もあって伸び悩み、悶々としていたところ告げられたのが抑え転向だった。先発として長いイニングは投げられなくなり、まだ投手分業制などない時代に、主に抑え、時に中継ぎとしてマウンドに上がり続けた。7年目の65年から3年連続で2ケタ勝利をマーク。66、67年は2年連続でリーグ最多となる交代完了40試合、35試合を記録。その意味では、“8時半の男”と言われた
宮田征典(
巨人)とともに抑えのパイオニア的存在と言えるだろう。

巨人の王貞治[左]とは同級生。同じセ・リーグで何度も対決した
68年のシーズン途中に右肘を手術し、翌69年引退。11年間の現役生活だった。その後は野球解説者を経てタレント業、俳優として活動。中日の応援歌『燃えよドラゴンズ!』の初代歌い手としても有名。ゆで卵好きでも知られた。多芸多才の右腕だった。