
文=大内隆雄
昨年の12月21日号の「多事正論」で
堀内恒夫さんが、サン
ケイ(現
ヤクルト)のオーナーだった水野成夫さんの名セリフを引用していたのが懐かしかった。水野さんは男があこがれる職業として連合艦隊の司令長官、オーケストラの指揮者、そして、プロ野球の監督を挙げた。水野さんは、監督ではなくオーナーにはなれたのだが……。
水野さんは、東大時代は、いわゆる“マルクスボーイ”。戦前の共産党に入ると、すぐトップに。しかし、やがて“解党派”と言われ、転向。その後は、実業家に転身。そこで資金を作ると、戦後はマスコミ業界に乗り出してサンケイ新聞の経営者となった。そのころから国鉄スワローズに資金援助を始め、65年4月に球団をサンケイ新聞とフジテレビに譲渡させ、サンケイスワローズとし、そのオーナーにおさまった。
そこまでの布石として63年には西鉄の主力打者、
豊田泰光遊撃手を強引に獲得。西鉄には破格の3000万円超のトレードマネーを払った。
しかし、いくらカネがあっても、チームが強くなるとは限らない。実質的なオーナーとなった64年、大エースの
金田正一を大いに激励したのもつかの間、12月、カネやんは、B級10年選手の権利を行使して
巨人へ去る。のっけからケチがついた格好の水野スワローズ(のちアトムズ)は、以後、上位に浮上することなく68年限りでオーナーを辞任。球団はヤクルトの手に(69年3月。70年からヤクルトアトムズ)。さぞや無念だったろうが、元々、文学青年タイプで、あの小林秀雄が親友で、フランス語の達人。翻訳も何冊かある。粘りとか寝ワザとかいうのは苦手だった。筆者はアンドレ・モーロワの『イギリス史』を水野訳(共訳)で読んだことがあるが、見事な日本語の訳文だった。だから、冒頭のような名言も多く、豊田さんによると「勘とは何ですか、と聞いたら、そりゃ経験の集積だよと即答が返ってきた」そうだ。言わば“文人オーナー”。こういう点では、阪急(現
オリックス)の初代オーナー・小林一三と通じ合うところがある。写真は64年の水野さん(中央)。右は金田投手、左は
林義一監督。