
学校創立100周年を記念した『池高野球部レジェンド達の集い〜蔦監督・池高を語る〜』には8人のOBがエピソードを披露した[後列左から時計回りで水野氏、梶田氏、窪氏、藤原氏、畠山氏、橋川氏、森本氏、岡田氏]
「地域に輝く学びの舎 たたえよ池高 上野が丘から未来(つぎ)の百年へ」
ステージの中央には、池田高校書道部によって書かれた書が、大きく掲げられている。1922年(大正11年)4月に徳島県立池
田中学校として開校して以来、徳島県立池田高校は2022年、創立100周年を迎えた。
11月13日、創立100周年記念式典が盛大に執り行われている。午前に同校体育館で記念式典が、午後からは場所を三好市池田総合体育館メインアリーナに移し、記念講演会が開催された。『池高野球部レジェンド達の集い〜蔦監督・池高を語る〜』と題されたその会に講演者として登場したのは、故・
蔦文也監督の教え子たちだ。蔦監督は春2度、夏1度の甲子園優勝へと導き、通算37勝。「阿波の攻めダルマ」と呼ばれた伝説の名将である。
甲子園で「さわやかイレブン」や「やまびこ打線」の旋風を起こした8人の“レジェンド”の話を聞こうと、全校生徒、職員、事前に申し込んだ一般客ら、総勢約800人が詰め掛け、エピソードに聞き入った。
パワー野球への転換期
74年春にセンバツ準優勝。「さわやかイレブン」の主将・森本秀明氏は“強打の池田”のイメージとはほど遠い、当時の練習について語る。
「もうバント、バント。練習のほぼ3分の1が打撃練習で、3分の2は守備練習。それが毎日の繰り返しだったように記憶していますね」
79年夏も甲子園準優勝。蔦監督はあと一歩を乗り越えるため、パワー野球を目指した。当時では珍しかったウエート・トレーニングを取り入れている。しかし、79年夏以降、池田高は甲子園から遠ざかった。復活出場した82年夏、初の全国優勝時のエース・
畠山準氏(元南海ほか)が、蔦監督との秘話を語る・・・
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