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野村克也の本格野球論

野村克也が語る「褒めることの難しさ」

 

阪神時代の新庄[左]を筆者はとにかく褒めた/写真=BBM


「非難は期待の裏返し」と思って奮起したが……


『週ベ』の編集者たちと「褒める」ということについて、話をしていた。すると既婚の女性ライターいわく、「夫の扱いは“褒めて育てる”です」。男は単純だから、「豚もおだてりゃ木に登る」なんだそうだ。そういえば、わが女房殿は私を決して褒めることはなかったが、うまいこと木に登らせたものだなあ。

 さて、本題。「人間は無視、称賛、非難の段階で試される」という。

 私がまさに、そうだった。高卒のテスト生上がりで、初めはまったく鶴岡一人監督の眼中になかった。箸にも棒にもかからず、「無視」されたということだ。

 やがてプロ入り3年目のハワイキャンプで結果を出し、なんとか一軍でマスクをかぶることができるようになった。あるとき、鶴岡さんに「お前、ようなったな」とひと言、すれ違いざまに褒められた。これが鶴岡さんからの、ただ一度の「称賛」だった。

 その後は、「非難」の連続である。特に正捕手の座に就き、四番を打つようになってからは徹底的に非難された。

「お前は二流のピッチャーはよう打つが、一流のピッチャーはさっぱりやのう」

 鶴岡さんは自軍の選手を絶対褒めず、相手の選手ばかり褒めていた。

「あれがプロだ」

「お前ら、よう見とけ」

 そんな言葉を何度聞いたことか。結局、自軍で褒められたのは、杉浦忠だけだった。

 非難され、叱責されて、悔しくないはずはない。私も悔しかった。ただ、“なにくそ”と反骨心を抱きながらも、「非難は期待の裏返し」と考えることにした。「俺はまだまだ伸びる力があるから、監督はそこに期待し、叱咤激励しているのだ」と思うようにしたわけだ。

 しかし今振り返れば、鶴岡さんの「非難」は、今一つ指揮官として“愛”を感じさせるところがなかったように思う。誰もが自己愛を持ち、自分中心に生きている。指揮官が心の中では自分のことを本当に思ってくれているんだと感じれば、選手は必ずそれに応えようとするものだ。そこに愛があるかないかが、選手操縦のカギになる。

 人間は感性を持った動物だ。見るもの、耳にしたこと、なんでも敏感に感じ取る。だから余計、言葉の力は大きい。指揮官――リーダーの言葉一つひとつが、信頼につながる。

 ところが、そこでやっかいなのは、「人を褒める」ことの難しさだ。正直言って、私は人を褒めるのが苦手である。褒めるタイミングも内容も、難しい。私自身、褒められた経験がほとんどないのだから当然といえば当然だし、どこか照れくささもある。ましてやヘタに褒めれば、「こんなことを褒めるの?」と選手にこちらの能力を疑われてしまう。

直球を打たれて「バカたれ」変化球だと「しょうがない」


 そんなこともあり、私は選手をできるだけ褒めないようにしていた。

「プロなら当たり前だ」

「お前ら、プロだろう」

 ただ、相手によっては「人を見て法を説け」で行かなければならない。例えば新人。褒めて伸びる選手と叱って伸びる、反骨心の強い選手を指導者は見分けなければならない。新人ではないが、阪神時代の新庄剛志は褒めて、おだてて生きるタイプだった。

 鶴岡さんが絶対に選手を褒めなかったのは、安っぽく見られるとか、野球を知らないのがバレるのが嫌だったのではないかと思う。一方、人をけなすのは至極簡単だ。

 鶴岡さんに叱咤されて一番イヤだったのは、私のリードを結果論で怒ることだった。ピッチャーは一切叱らず、打たれればキャッチャーの私ばかりが叱られる。

「何投げさせたんや?」

「真っすぐです」

「バカたれ!」

 腹の中では、「なんじゃ、この監督。結果が出る前に何を投げさせたらいいか言えよ」と思いながら、私とて口には出せなかった。

 面白いことに、真っすぐを投げさせて打たれると怒られるのだが、変化球を打たれると、いつも「しょうがない、相手がよう打った」となるのだ。ピッチャーもそこはよく分かっていて、打たれたあとチェンジになってベンチに帰る途中、「また監督に怒られるな」と私がこぼすと、「ああ、分かってる。スライダーって言っておけよ」などと言ってくれた。

 ベンチに帰ると案の定、鶴岡さんが私をにらみながら、「何投げさせたんや」と聞いてきた。

「スライダーです」

「じゃあ、しゃあないなあ」

 真っすぐを打たれると「バカたれ」で、変化球を打たれると「しゃあない」となる、その根拠が私にはさっぱり分からなかった。

 打たれたキャッチャーに「その球を投げさせた根拠があるならいい」と私が言えるのは、そんな鶴岡さんを反面教師にしたからなのだろう。

PROFILE
のむら・かつや●1935年6月29日生まれ。京都府出身。54年にテスト生として南海に入団し、56年からレギュラーに。78年にロッテ、79年に西武に移籍し、80年に引退。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王に輝いた強打と、巧みなリードで球界を代表する捕手として活躍した。引退後は90〜98年までヤクルト、99〜2001年まで阪神、03〜05年までシダックス(社会人)、06〜09年まで楽天で監督を務め、数々の名選手を育て上げた。その後は野球解説者として活躍、2020年2月11日に84歳で逝去。
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野村克也の本格野球論

勝負と人間洞察に長けた名将・野村克也の連載コラム。独自の視点から球界への提言を語る。

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