
ワールドトライアウト2019で監督を務めた清原。若いころからしっかりと人間教育をしておけば……/写真=矢野寿明
指導者就任への願望はあるようだが……
清原和博(元
西武ほか)が11月30日、『ワールドトライアウト2019』なるもので、監督を務めたという。NPBが毎年行っている『12球団合同トライアウト』とは別物で、一般企業が開催し、海外球団も視野に入れたものなのだそうだ。“トライアウトの監督”というのが何をするのか、私にはさっぱり分からないが、清原の現場復帰を応援する誰かが強く後押ししたとも言われている。
ご存じのように清原は16年2月に覚せい剤取締法違反で逮捕され、5月に有罪判決を受けた。今は執行猶予中の身である。どうやら本人は指導者になりたいという願望もあるようで、インタビューの端々にそんな言葉が出てくると聞く。
しかし、清原の引退は08年。覚せい剤で逮捕される8年も前である。もし清原が指導者として期待されているのなら、とうの昔にどこかの球団から声が掛かっているはずだ。それがなかったということは、やはり悪いウワサがあったか、指導者としての適性が認められなかったか、どちらかなのではないか。
覚せい剤は一度手を染めると、そう簡単にはやめられないという。そんな話を聞くと、今の清原の姿を見ても、どこまで信用していいのか分からなくなる。
(PL学園)高校時代の清原を見たとき、私は彼がいずれプロで私のホームラン記録(657本)を抜くのではないかと思った。下半身を柔らかく使い、広角に打ち分ける。遠くへ飛ばす力も含め、天性のものを持っていた。
だが、性格は見たとおり球界のお坊ちゃんなのだろう。のんびり甘やかされて育ったのだと思う。高校時代は甲子園のヒーロー、スーパースターとしてちやほやされ、また、なまじっか天性の力があるものだから、プロに入ってすぐ成績を出してしまった。そりゃあ天狗にだってなるはずだ。
若いうちから六本木を遊び回って……などという話を聞いたときだったか。あるいはもっとあと、ピアスをしてチャラチャラ打席に立っていたころだったか。私は清原の入団時、西武の監督だった
森祇晶にこう言った。
「清原があんなになったのは、お前の責任だぞ」
すると森は、「俺は関係ねえよ」とそっぽを向く。私は言った。
「大いに関係あるだろう。アイツがプロに入ってきたとき、お前がまず育て方を間違ったんだよ」
人生は縁。もし高卒で私のもとへ来ていたら…
現役時代、
巨人・
川上哲治監督のもと散々、人間教育、社会人教育を受けてきた森が、なぜ川上さんのマネでもいいから、それができなかったのか。私は不思議でならなかった。
確かに野球の技術を教えるよりも、人間教育のほうがはるかに難しい。しかし、そこに力を入れずして、なんのための監督か。
清原も、高校の同級生・
桑田真澄(元巨人)も、そろって良い例だと思う。高校時代からスーパースター。だからプロに入っても、厳しい環境に置かれることがなかった。そこでどうしても、考え方が甘くなる。自分なら何をしても許されるような気持ちになってしまうのだろう。
結果、2人ともあれだけの実績を持ちながら、プロ野球の指導者として呼ばれた試しがない。それを思うと、人生は縁だ。清原も高卒時、私のところへ来ていれば、少しは変わっていたのではないか。
私が
楽天の監督に就任する前年、清原は巨人を戦力外になった。そのとき楽天が清原獲得に乗り出したのだが、私はそれを聞き、「まずピアスを外してから来るように」と言った。その言葉が清原に伝わったかどうかは分からない。清原は、楽天の交渉前に仰木(
仰木彬)との約束があったとかで、
オリックスを選んだ。
私は監督として、選手に対する人間教育を重んじてきた。そこにはピアスはもちろんヒゲ、茶髪、長髪といった身だしなみも含まれる。
ヤクルト監督時は特にそのあたり、やかましく言ってきた。「時代錯誤だ」という外野の声もあった。しかし、プロ野球選手は少年少女の模範でなければならない。そして、身だしなみの乱れは、その選手の心の乱れをも示す。
茶髪もヒゲも、心理学的には自己顕示欲の表れなのだそうだ。野球選手が野球以外で目立って何をしたいのかと逆に問いたい。
ヤクルトのユマキャンプで、私はアトランタ・ブレーブスのパット・コラレスコーチに「メジャーではどうか」聞いてみた。すると、やはり「強いチームほど細かい規則がたくさんあるものだ」という答えが返ってきた。
ましてや清原は、中心選手。その行動が、チーム全体の雰囲気や結束を左右する。たかがピアス、ではないのである。
清原は逮捕後の3年間で、果たしてどこまで自分を見つめ直し、変わったのか。トライアウトされているのは、もしかしたら清原自身かもしれない。
PROFILE のむら・かつや●1935年6月29日生まれ。京都府出身。54年にテスト生として南海に入団し、56年からレギュラーに。78年にロッテ、79年に西武に移籍し、80年に引退。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王に輝いた強打と、巧みなリードで球界を代表する捕手として活躍した。引退後は90〜98年までヤクルト、99〜2001年まで阪神、03〜05年までシダックス(社会人)、06〜09年まで楽天で監督を務め、数々の名選手を育て上げた。その後は野球解説者として活躍、2020年2月11日に84歳で逝去。