ドラゴンズのリリーフとして投げ続けた右のサイドスロー。地元で育ち、地元で野球を続け、地元のプロ球団に入った。通算462試合で75セーブと117ホールドを記録。「毎日でも投げたかった」と言う13年間の現役生活に悔いはない。抑え時代は“タジ魔神”と呼ばれたことも、今は懐かしい思い出だ。 取材・文=牧野正 写真=BBM 力勝負では勝てない理想と現実の間で
今年が最後のシーズンになることは予想していた。今季初登板となった6月27日の阪神戦(甲子園)は一死も取れずに4失点で降板。二軍降格となり、それ以降、一軍から声は掛からなかった。3年契約の3年目。自分の置かれた立場、年齢を考え、ほかの中継ぎ投手たちを見渡しても現役続行が厳しいことは分かり切っていた。もうごまかして勝負はできないと引き際を悟った。 ――まずは今の率直な気持ちから教えてください。
田島 すっきりしています。もう体を動かさなくていいですし、朝起きたとき、体が痛い、かゆいの確認もしなくていいですから。
――まだ引退の実感はない?
田島 今はやめたばかりで、周りの方から「お疲れさま」と言われることが多く、そこで実感しますけど、自分の中ではこれから時間が経つにつれて感じてくると思います。
――あらためて引退を決断した経緯などを教えてください。
田島 今年ダメだったらという気持ちは最初からありました。3年契約の3年目ですし、そういう気持ちでキャンプからスタートして、オープン戦でも結果は良かったですけど、開幕は二軍でスタートして……。
――オープン戦は5試合に登板して失点ゼロと結果を残しました。開幕二軍は納得いかなかったのではありませんか。
田島 そういう気持ちもありましたけど、数字だけじゃなく、中継ぎの顔ぶれを見ても力勝負では勝てていないという気持ちもどこかにありました。ごまかしながら何とか抑えているという状況でしたから。大きかったのは甲子園ですね(6月27日の阪神戦)。ああいう形でやられてしまって、もうごまかして抑えるのは無理だなと。これが最後の登板になるのかなと思ってマウンドを降りましたし、今思えばあそこで(引退の)気持ちは固まっていました。
――ただ、まだ1試合。やり返すチャンスがもらえなかったという悔しさはありませんでしたか。
田島 いや、それはもうまったくなかったです。それに次のチャンスをもらえて抑えていたとしても、ごまかしながらできる場所じゃないことは自分が一番よく分かっていますから。僕の中ではファームに落ちたときに(引退を)発表してもいいくらいの気持ちでした。でもそこは監督(
井上一樹二軍監督)と話をして、まだ気持ちを切るな、最後までやり切ることに意味があると火をつけてもらい、何とか今年を乗り切れたという感じです。球団に呼ばれて引退を打診され、引退セレモニーの準備をしたいと言われて、そこでようやく解放されたというか、気持ちよく終われる空気になりました。
――未練、後悔は本当にないですか。
田島 全然ないです。まだやれると言ってくれる優しい方はたくさんいますけど(笑)、自分の中ではやり切ったという思いが強いです。ごまかしてやっていても自分自身、きっと楽しくないと思いますから。
――今後の予定は?
田島 まだ本当に未定です。(指導者として)話があればそれはありがたいことですし、チャレンジしたいなという気持ちはあります。ただ、何をやるにしても、これまで本当にいろんな人に助けられてきたので、今度は自分が人を助けることをしたいですね。その中でやりがいを見つけたいと思います。(※10月28日、中日の投手コーチ就任が発表された)
驚いたレベル&練習量 無心だった1年目
地元の中部大第一高から東海学園大に進んだ。プロなど考えもしなかった学生時代。しかし昔から肩だけは強かった。大学3年春にスプリットを覚えて大きく飛躍。高校時代は137キロだった球速は149キロまで伸びていた。2011年秋のドラフトで小さいころからファンだった中日から3位指名。指名漏れの不安もあっただけに安堵の涙があふれた。 ――ドラフト当日のことは覚えていますか。
田島 当日は朝からテレビの密着取材がついていて、会見場も用意されていて、記者の方もたくさんいて、後輩たちもグラウンドで待機しているし、想像以上でした。これで指名漏れだったら・・・
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