楽天で日本一の胴上げ投手となり、ロッテ移籍後も先発ローテを支えた。高校時代から常にケガと隣り合わせで、引退登板でも右肘の腱を切りながらも最後まで腕を振り切った右腕が、これまでの現役生活を振り返った。 取材・文=落合修一 写真=戸加里真司、BBM ケガとともに歩んだ野球人生
9月30日の楽天戦(ZOZOマリン)での引退登板から2カ月以上が過ぎても、あの日の余韻は鮮やかだ。浅村栄斗との最後の対戦で全力投球を見せたその裏側で、右肘の大きな腱は3球目で切れていた。高校時代からケガに悩まされ続けてもボールを握ることだけはやめなかった右腕の原点をたどっていく。 ――引退登板の翌日の球団からのリリースで驚いたのが「昨日の3球目で肘の感覚がなくなりました」というコメントでした。
美馬 本当に3球目で切れて、10月5日ぐらいですかね、すぐ手術しました。大きな「共同腱」っていう腱が切れてしまったんで、時間はかかるかなっていう感じです。
――もう現役ではないので、「次はいつになったら投げられるんだろう」というプレッシャーは、以前よりは楽ですか。
美馬 そうですね。今までよりはかなり楽です。まあでも、これからも人生は続きますので、日常生活というか、そういったところは万全にしておきたいですよね。
――では、野球人生を少し振り返らせてください。最初に野球を始めたのは、何歳ぐらいですか。
美馬 小学校1年生ですかね。地元のチームに入ったのが最初です。
――それは自分が「野球をやりたい」と思って?
美馬 やりたいと思っていたのと、兄が先に入っていたので一緒に付いていって遊びに行ったりして、自分が1年生になって、ちょうど入った、みたいな感じですかね。
――高校進学のときは、いろいろ誘われたりも。
美馬 そうですね、いろいろ声を掛けてもらったんですけど、地元の藤代高を選んだのは持丸修一監督(現専大松戸高監督)がいらっしゃったからです。
――「公立高校で甲子園へ」という思いもあったわけですか。
美馬 はい。公立高校で甲子園に行きたい目標がありました。甲子園に行くのが目的なら常総学院高みたいな私立に進む選択肢もありましたけど、やっぱり持丸監督と一緒に甲子園に行きたかった。中学のときの先生が「私立に勝ちたい」みたいなことをよく言っていたので、私立を倒して公立高校で甲子園に行くのがカッコいいという価値観が刷り込まれたのかなと思います。
――藤代高時代の一番の思い出は。
美馬 春の甲子園に出たことですね。でも2年生だったので……。やっぱり、最大の思い出は2年夏の県大会決勝、常総学園に負けた試合ですかね。県大会の決勝で負けるって、一番悔しいですよね。人生で一番泣いたんじゃないですかね。
――3年になってからは、ケガとの戦いだった。
美馬 ケガしかしてないんですよ。2年秋の大会で肋骨を折って、3年春に鎖骨を折って、夏の前に肘の靱帯を切って。肘は休んでも休んでもずっと痛くて、「何だろうな」って思ったら、やっぱり靱帯が切れていました。最後、めちゃくちゃ痛かったですけど、夏の初戦だけは投げました。投げられなくて終わるよりは、投げて終わりたかったので。
中大、東京ガス、そして楽天へ
ボロボロの肘を抱えたまま進学した中大では、投げられない期間が長く続いた。それでもウエート・トレーニングで球威を取り戻し、2部リーグながらMVPも獲得。東京ガスでは榎田大樹(のち阪神、西武)の後ろでがむしゃらに腕を振り、2年でプロへの切符をつかんだ。星野仙一監督の楽天にドラフト2位で入団すると、3年目に日本シリーズ第7戦で先発、そしてMVP。野球人生のハイライトが一気に押し寄せる。 ――中大に進んでからも、やっぱりケガとの戦いでしたか。
美馬 入学した時点ですでに手術していたので、「どうしたら前みたいに投げられるのかな」っていうのをずっとやっていました。冬にウエート・トレーニングを始めたらボールのスピードが上がってきて。2部ですけど、ちゃんと投げて抑えられるようになって、最後のリーグ戦で・・・
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