高卒の大型捕手として期待されて入団。その後ケガなどで育成となった。そこからもう一度這い上がり、金本知憲監督となった2016年に支配下に戻り大活躍。だが26歳のときに「大腸癌」を発症。それをも克服し、日本一も経験。波乱万丈の16年間だった。 取材・文=椎屋博幸 写真=宮原和也、BBM 金本監督就任最初の打撃練習で大アピール
若いときのケガで育成選手となった。先がまったく見えない日々を過ごすも、バットを振ることは欠かさなかった。2015年秋、金本知憲氏が監督に就任した。この機会に懸けるしかないと考えていたところに、秋季練習へ呼ばれたのだ。ここが大きな転機になっていった。 ――10月2日のシーズン最終戦(甲子園)で引退セレモニーがありました。その後は、日本シリーズに帯同し、一緒に戦って現役を終えました。
原口 本当に、シーズンの最後までプレーできたことは幸せなことですよ。チームメートに感謝です。日本シリーズまでユニフォームを着ることができたのは良かったです。
――満足な終わり方ではないですが、いい形での現役引退という感じでしょうか。
原口 まあ、そうですね、自分の中で(引退を)納得しようとしています(苦笑)。納得できる理由を探しながら、現役を引退すると決めた部分もあり、自問自答しながらプレーしていました。
――引退の決断もそうですが、原口選手のプロ野球生活、いろいろとありました。癌のお話を聞く前に、病気から復帰、復活した阪神戦の二塁打はしびれました(2019年6月4日=ZOZOマリン、9回代打で二塁打)。
原口 あれは、すごかったですね。あの場面は、病気に勝って球場に戻ってこられたからこそ味わえる雰囲気でした。阪神ファンだけではなく
ロッテファンからも温かい声援をもらえて、すごい雰囲気をつくっていただいて、僕の野球人生の最高の場面での、最高のヒット(二塁打)だったので、本当に虎ファンの皆さん、阪神ファンには、感謝の言葉しかないですね。
――育成からはい上がり、癌に打ち勝って……モチベーションの保ち方がいろいろあったと思いますが、ブレなかったですね。
原口 若いときはいろいろとケガも多かったんです。ファームでも試合に出られない。試合に出られるようになっても、実力がなく結果が出ない日々が続きました。それでも、このときは一軍で活躍し優勝に貢献したいということを大きな目標にして高い志を常に持ってやっていました。当時二軍施設があった鳴尾浜の室内練習場で、たくさんバットを振っていたな、と思い出があります。
――黙々とバットを振る日々が続いていたんですね。
原口 あまり外出するタイプでもなかったんですよね。そういうのもあって室内で練習していたなあ、という思い出があります。自分なりには振り返るとよく練習していたなあ、と思います。ただ、やり過ぎてケガをしたのかなとも(笑)。
――ケガの影響で育成になり、そこから金本知憲新監督になった16年に支配下に戻ります。そのときの感情はどういう感じだったのでしょう。
原口 高卒のときは体力も技術も付いていけない感覚で、もがいていました。育成になった後も、もどかしい気持ちの中で、自分を奮い立たせていました。でも、金本さんが監督就任して行われた秋季練習の初日(15年秋)に参加させてもらい、ここが転機でした。
――初日から呼ばれたからには、いいところを見せるしかない、と。
原口 甲子園での秋季練習でした。アピールするにはここしかないと思って、野球人生を懸けてのバッティングをしたんです。このときから時間が一気に動き始めました。この練習でいい打撃ができたので、少し何かあるんじゃないか、もしかしたら、という期待が自分にでき始めました。毎日やっているこの練習を積み重ねていったら、もしかしたら支配下に行けるかもしれないと。
――支配下に戻ったときは、やはり自分の行動が間違っていなかったと。
原口 秋につかんだバッティングというものは、春になっても変わってなかったんです。感覚的につかんだものがあったんですね。結果にしても、ファームの試合でも打ち始めて、いい状態になっているな。そんなときに支配下、一軍へとなりました。すごく良いタイミングで一軍に上げてもらいました。
――不思議な縁があるというか……。
原口 もう野球しかなかったので。何がやれる? と自問自答して、野球しかないじゃん、と。それなら必死にやるしかない、と決めてひたすら練習して。そんなときに金本さんが監督になられて・・・
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