卒業後の進路志望は「プロ一本」。この時点で決めているあたり、野球にかける覚悟は相当だ。昨春の関東大会で一躍、スカウト注目の的となった。県内には昨夏まで6年連続代表の作新学院高がいるが、最終学年、甲子園出場を固く誓っている。 取材・文=佐伯要・写真=窪田亮 
青藍泰斗高は前身の葛生高時代の1990年夏が唯一の甲子園出場。宇賀神監督が「これまでで一番の素材」と認める本格派投手が、27年ぶりの夢舞台を目指す
制球難を克服した地道なトレーニング
どんな選手にも、分岐点となる経験がある。
石川翔はしみじみと言う。
「あのとき打撃投手をやって、もしボールが続いていたら、今の自分はないかもしれません」
右腕をムチのようにしならせ、力のある直球を投げ込む。1976年(当時の校名は葛生高)からチームを率い、
石川俊介(元
阪神)らプロへ進んだ投手を育てた宇賀神修監督が「これまでで一番の素材」と認める本格派投手だ。
中学時代は外野手兼投手。マウンドに上がる機会は少なかったが、球速は137キロを記録した。「球の速さには自信がありました。コントロールは悪かったんですけど」と、石川は苦笑いする。
青藍泰斗高では投手を希望した。入学してしばらくすると、控え組・Bチームの練習試合で登板する機会があった。2イニング投げたが、四球を連発。ストライクを取りにいった球を打たれるという散々な内容だった。それで「投手不合格」となり、外野を守ることになった。
「悔しかったですね。その後、同級生が試合で投げるようになりましたが、見たくありませんでした」
それでも投手をやりたいという気持ちは消えなかった。1年の冬ごろから、石川は練習後にあえて宇賀神監督の視界に入るところでキャッチボールをして、アピールを続けた。肩のインナーマッスルや体幹を鍛え、地道な準備も怠らなかった。
打撃投手から信頼得て2年春に飛躍のきっかけ
昨年3月。宇賀神監督から「投手をやりたければ、まず打撃投手をやれ」と言われた。投手に戻るためのラストチャンスかもしれない。そう思うと重圧があった。だが、やるしかないと腹をくくった。打者4人に対して、4分間ずつ。これを3日間続けた。
「1年のときの練習試合では『打たれたらどうしよう』と思ってストライクが入らなかったけど、あのときは『先輩が・・・
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