徳島の名門・池田高で甲子園を目指したが、今夏は準決勝で涙をのんだ。堂々とした体格であり、スケールの大きなプレースタイルは同校先輩である水野雄仁氏(巨人コーチ)の再来と言われている。 取材・文・写真=寺下友徳 
甲子園通算37勝を挙げた蔦文也元監督の碑の前にて撮影。ここに刻まれた言葉の意味をかみしめてプレーしてきた
北方には西山を抱き、南方に三好市街を見下ろす徳島県立池田高等学校。校門とグラウンドをつなぐ間に、碑がある。
「山あいの町の子供たちに一度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」
春7回、夏7回甲子園出場。うち春2回(1983、86年)、夏1回(82年)の優勝を誇り、通算37勝11敗。高校野球界に燦さん然ぜんたる記録と記憶を残し2001年に77歳で逝去した蔦文也元監督の碑に刻まれた願いは、チームだけでなく、プロへ進む選手を輩出する原動力にもなった。「大海」とは、高校3年間で追い求める「甲子園」だけではなく、長い人生における「野望」を意味していたのだ。
82年夏の甲子園優勝投手として南海にドラフト1位指名を受け、のちに打者へ転向した
畠山準。83年春の優勝投手で巨人からドラフト1位指名を受け、13年間プレーした水野雄仁。そして、時は流れて令和元年。2001年のドラフトで、巨人5位で入団した左腕・
十川雄二以来、8人目のNPB入りを目指す右腕がいる。
白川恵翔。池田高入学時「阿波の金太郎二世」として、周辺から大きな期待をかけられた、最速146キロ右腕である。
「父(一喜さん)は蔦監督から池田高校に誘われていたんですが、肩を痛めて叶わなかったことを、幼いころから聞かされていました」
白川が「IKEDA」へのあこがれを決定的なものとしたのは・・・
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