日本シリーズの季節になった。プロ野球の歴史を彩り、その主役ともなった名選手の連続インタビューは、黄金時代の西武でその大舞台を何度も経験した石毛宏典氏の登場だ。王者に駆け上がるライオンズで力をつけ、中心選手となってからは先頭に立ってチームを引っ張った石毛氏。最強に彩られた野球人生を振り返る。 取材・構成=大内隆雄 写真=BBM 駒大時代から最高のキャプテンシーを発揮
入れ替え戦ではショートからマウンドにのぼりリリーフを!
今回登場の石毛宏典氏は、前回の山本浩二氏同様、大学時代から始めなければなるまい。駒大時代の恩師、太田誠元監督は「私の教え子の中で、最高のキャプテンシーを持っていたのは、中畑清(のち巨人、現DeNA監督)、石毛宏典、広瀨哲朗(のち本田技研-日本ハム)、この3人です」と語ってくれたことがある。3人の、のちのプロでの活躍、立場を思うと、まさにそのとおり、ということだろう。なかでも、太田監督とともに、天国と地獄の両方を味わった選手は石毛氏のみである。天国とは、石毛氏は在学8シーズンで5度のVを経験していること。まさに駒大黄金時代、自身も6度の遊撃手ベストナイン。では、地獄とは? あの入れ替え戦を戦ったことである。
石毛氏が主将となった4年春の駒大は、亜大から勝ち点を奪っただけで最下位に沈んでしまった。駒大は二部優勝の日大と一、二部入れ替え戦を行うことになった。駒大は2勝しなければ二部転落。この二部転落の惨めさは、味わったものでなければ絶対に分からないと東都関係者が言う、まさに地獄。駒大は、初戦、中盤に日大に逆転されたが、土壇場の9回に追いついて6対6の同点。しかし、駒大はベンチの投手を使い果たしてしまった。「よし、オレが投げる」とマウンドに立ったのが石毛主将。これでナインは奮い立ち、延長11回に一挙5点。石毛投手は2回を無失点で投げ抜き駒大は11対6で勝利、この勢いで第2戦も4対3、駒大は何とか一部に踏みとどまった。「石毛は泣きながら投げていた」という伝説がいまに伝わっている。 まさか投げているときに、そんなことありませんよ。泣いたのは残留を決めたあとです。そりゃ、やっぱり、最下位は屈辱だったですからねえ。泣いていたら太田さんに「涙なんか流しているんじゃない。いままでの苦労まで流してしまうじゃないか」と言われました(この太田監督の言葉には、苦労をともにした、という実感が込められていた)。初戦のリリーフは、ベンチにいた5人の投手を使い切ってしまったからです。私は2回をノーヒットに抑えたんですよ。勝ち投手? そういうことになるんですかねえ(苦笑)。とにかくホッとしましたよ。
大学に行けるなんてまるで考えたこともなかった農家の次男坊が、家族会議まで開いた末に送り出してもらった。これはもう、神宮で活躍して「石毛決勝タイムリー!」の記事が新聞に載ったのを親に読んでもらうしかない。親孝行というより、連絡といえば「金送れ」だった息子の親への現状報告ですかね、これは。
それにしても太田さんは、私をよく使ってくれましたよ。三振しようが、エラーしようが試合に出してくれた。監督に申し訳ないの気持ちだけでやったようなものです。あのころの大学野球部は厳しくてね。1年畜生、2年動物、3年人間、4年神様なんて言われて。1年のときは自分の時間なんてまるでない。2年では練習は必死にやりました。3年になると、まさに人並みになるワケです(笑)。
2年目の広岡監督との出会いが決定的
イヤミ(?)と直接指導で徹底的に鍛えられプロとしての自覚を

ルーキーの81年、打率.311、本塁打21の素晴らしい成績
それはともかく、私たちの年代は、以前の人たちのようにハングリーがバネになっていたワケではありません・・・
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