1998年、「マシンガン打線」を擁してセ・リーグ制覇、日本一まで駆け上がった横浜ベイスターズ。しかし、優勝の原動力には打撃のみならず、投手陣の存在があった。当時、左のエースとして歓喜を味わった野村弘樹は、自身の完投勝利でマジック「9」が点灯した試合が印象に残っているという。 取材・構成=滝川和臣 実感がなかったV争い
PL学園高では3年時に、立浪和義(元中日)、片岡篤史(元日本ハムほか)、橋本清(元巨人ほか)らとともに、史上4校目の甲子園春夏連覇を達成。1988年にドラフト3位で大洋(現DeNAベイスターズ)に入団すると2年目から左の先発に定着した。93年には最多勝(17勝6敗、防御率2.51)を手にするが、チームは優勝とは縁遠かった。しかし、風向きが変わってくる。97年を2位で終えると、翌年、監督に昇格した権藤博の下、優勝へ向かって一つになる。野村弘樹はこの年、13勝8敗、防御率3.34。最多勝を取った93年に次ぐ好成績で優勝への推進力となっていった。 98年は
阪神との開幕カード3連勝から始まったシーズン。今振り返ると1戦1戦をみんなが集中して戦っていた印象です。前年にセ・リーグ2位になっていたとはいえ、チーム内に優勝を争っている意識はなく、9月に入りようやく「優勝できるぞ」という雰囲気が生まれ、いよいよ現実味を帯びてきました。

98年は開幕から阪神を3タテ。4月5日の試合で好投した野村はリリーフ・斎藤隆[左]とお立ち台に立った
私はこの中日戦の前の登板でも巨人を相手に完投勝利(9月17日東京ドーム、6対1)していました。チーム内は首位を争っている中日との直接対決ということでさすがにピリピリとした雰囲気でした。勝てばマジック点灯ということは分かっていましたけれど、私自身はそれほど緊張せずにすんなりと試合に入ることができました。
調子はそれほど悪くなかったですね。だから、相手どうのこうのよりも、自分のボールを投げることに集中していました。当時の権藤監督は細かいことを投手に言うことはなく、選手に任せる部分が多かった。投手コーチの斉藤(
斉藤明夫)さん、ブルペンコーチの堀井(堀井恒雄)さんもそう。だからやりやすかったですよ。
中日との直接対決
勝てばマジックが点灯する大事な試合。相手先発は山本昌。初回にベイスターズが誇る「マシンガン打線」がいきなり火を噴き、二番・波留敏夫、三番・鈴木尚典、四番・ローズの3連打で1点を先制した。しかし、試合は両投手が粘り強く投げ、投手戦の展開となる。 中日の先発、(山本)昌さんとはよく投げ合いましたが、私はなるべく・・・
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