海を渡ったのは15歳の春、あれから10年の時が過ぎた。日本で野球の奥深さを知り、それを生業とする今、ようやく野球と真剣に向き合うことを知った。
かつては“井口2世”と評価された未完の大器。大きな大志を胸に抱き、バットを振る日々を送る。 文=菊池仁志 写真=桜井ひとし、湯浅芳昭、BBM 春の陽光を浴びながら汗を滴らせバットを振る。日に焼けた顔は精悍さを増し、鍛え上げられた分厚い胸板と太い二の腕に力がこもる。「自分の特長」だと言う打撃の向上が一軍昇格への最短の道。二軍にくすぶる己のふがいなさを振り払うように、それでいて自分の力ではどうにもならない一軍の充実の戦力を神経質に眺める心を追いやるように、一本、また一本とスイングを重ねる。いま、できることはただ、それだけ。それでもイメージはできている。めぐって来たチャンスで、バット一閃。自分の力で立場をつかみ取る決意だ。
逃した大魚 プロ7年目の2013年シーズンを「悔しいシーズンでした」と振り返る。前年に一軍初出場を果たし、初本塁打もマーク。打撃各部門の数字を軒並み増やし、その数字だけを見れば順調にステップアップを遂げたシーズンを、だ。それは逃した魚のあまりの大きさを痛感しているから。チャンスが平等に与えられるのは、ほんの一瞬。それを逃すのと、つかみ取るのとでは、これもまた一瞬にして大きな差となる。甘えが許されないプロの厳しさを、スポットを浴びる後輩の背中に見ていた。
開幕は二軍で迎えた昨季、一軍から声が掛かったのは連休が明けた5月9日だった。チームはその時点で首位・
西武と9.5ゲーム差の4位に低迷。開幕を四番で迎えたペーニャ(現
オリックス)が30試合を終えて打率.211、本塁打ゼロと極度の不振に陥っていたことも、その原因としてあった。
李杜軒は「チームで数少ない長距離が打てる右打者」(
大道典良二軍打撃コーチ)で、一軍昇格はそのペーニャの代役と期待されてのことだった。
その日のオリックス戦(ほっと神戸)で「七番・DH」で先発出場すると、左腕・海田から中前打。すると対左投手で出場機会を増やし、5月18日の
阪神戦(甲子園)では小嶋からプロ第2号本塁打を含む2安打など結果を残していった。一方で12年も6打数ノーヒットに終わっていた右投手相手に結果を残せない。交流戦期間中に4度、右投手相手に打席に立ち無安打。「左より右の方が打ちやすい」という本人の感覚とは裏腹な結果に、出場機会は左投手のときに限定されていった。
そんな李杜軒を尻目に、定位置を見事に自分のものにしてみせたのが、1歳下の後輩・
中村晃だった。開幕を一軍で迎えた中村は、開幕3戦目に右手小指をはく離骨折し、離脱。再昇格は李杜軒より遅い5月14日だった。交流戦が始まって間もない5月19日の
中日戦(ヤフオクドーム)で「一番・一塁」に抜てきされると、6打数2安打の活躍。何より、投手の左右に関係なく、打てる球が来るまで徹底してファウルで粘る姿勢やシチュエーションに応じたチーム打撃ができる点が評価を高めた。
「あそこで自分も右を打てていたら、レギュラーを獲れたかもしれないと思うんです。それができなかったのが悔しいです」。そう悔やむのはその1年前の12年6月22日、ヤフオクドームでの
日本ハム戦だ。それまでファームで打率.304と状態は上向き。同日のデーゲームで行われたウエスタン・リーグ
広島戦(雁の巣)でも安打を放って一軍に呼ばれ、「八番・一塁」で先発出場した。先発マウンドには右腕の
斎藤佑樹。遊飛、遊ゴロ、そして代わった同じく右腕の
森内壽春には空振り三振を喫した。「右は打てない」
あまりに極端なレッテルを貼られた。その後、13年シーズン終了までに25試合に先発出場したが、そのいずれも相手先発が左投手のときだ。
あこがれの存在を追って ▲2010年10月のアジア大会で台湾代表となり、兵役も免除された。写真は2013年11月の台湾代表対侍ジャパンの親善試合のもの
台湾から日本へ来て10年が過ぎた。あのころ、まさか日本に残って野球を生業として生きているとは、思いもしなかった。そもそも、父の勧めで半ば強引に歩まされた道だ。「高校を出たら大学に行って、台湾に戻る気でいました。日本の高校へ進むとき、お父さんに言われたのは・・・
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