たび重なる故障に悩まされ、大学ではリーグ戦でわずか2試合の登板に終わった。だが、あふれんばかりの才能はプロスカウトの眼力に見いだされた。入団3年目。その評価が誤りでなかったことを、薮田和樹はマウンド上で証明している。 文=坂上俊次、構成=吉見淳司、写真=太田裕史、BBM 取り戻した「投げる喜び」
ほぼ4年ぶりの感覚である。肉体面に不安がない。学生時代から、右ヒジの疲労骨折や右肩痛に苦しめられてきた。亜大では、東都大学野球のリーグ戦に登板したのも2試合だけだった。プロに入っても体は万全ではなかった。
2017年、薮田和樹がマウンドで躍動している。早くも中継ぎとして23試合に登板、3勝をマークし防御率は3.00の好成績(5月25日現在)。MAX153キロの快速球を連発し、ツーシームも冴えわたる。プロ3年目にして、薮田はチームの勝ちパターンに欠かせない存在となっている。
「去年では考えられないことですね。一軍で2試合に1度くらいのペースで投げさせてもらっています。肩にはまったく不安がありません。大学3年のとき以来のことです」 これまでとはマウンドへのアプローチも違う。これまでは、少しでも体に不安を感じると、「投げない」という選択肢しかなかった。しかし、今の薮田は解決策を積極的に探る。
「納得するまでキャッチボールをしたり、ストレッチをしたり。バリエーションが増えました。投球面でも、ただ全力で腕を振るのでは、投げてみないと分からない投球になってしまいます。今は、ストライクが取れるくらいの感じで投げて、思った以上にボールがいくような感覚があります」 シーズンを通じて一軍にいたい。そのための段階を確実に踏みしめてきた。妥協のない自主トレ、キャンプでの早めの調整、オープン戦での好投、そして開幕一軍……。
シーズンはまだ5カ月以上続く。だからこそ、彼はマウンドへのプロセスを大事にする。グラウンドから引き揚げる時間は、これだけの登板数を重ねる選手にしては遅い。練習後、薮田はストレッチポールを脇に挟んだまま、丁寧に受け答えしてくれた。
「体を硬くしないことです。去年春に右肩痛を再発してからストレッチを大事にするようにしています」。
せっかく取り戻した「投げる喜び」を手放すわけにはいかない。故郷の
広島で大車輪の活躍を誓う。だからこそ、彼はいかなる準備もおろそかにはしないのである。

5月23日のヤクルト戦[マツダ広島]では、先発・野村祐輔が腰の違和感のために緊急降板。急きょ4回から登板し、3回無失点の好投でチームと自身に勝利をもたらした
広島スカウトが原石を見抜いた理由
広島に生まれた薮田は、小学生のころに野球に出合った。
誰よりも遠くに打球を飛ばしたかった。誰よりも速い球を投げたかった。あこがれは当時の広島の主軸である
金本知憲(現
阪神監督)だった。純粋に、速さや強さにあこがれを抱く少年だった。
「速いボールを投げたくて、小学校では休み時間にゴムボールを投げていました。家の庭でも、兄とキャッチボールもしましたし、一人で壁に向かって投げた記憶もあります」 広島安芸リトルシニアに入団すると、薮田は頭角を現した。ライバルチームを率いた掛谷裕(笠岡リトル監督・当時)は対戦したときのことを振り返る。「彼は最も警戒したピッチャーでした。中学1年のときには、すごいボールを投げていました。天性でしょうね。身長も高いし、球も速い。子どもですから、どうしてもボール球に手を出してしまいます。薮田に対しては、絶対に高めの球を振らないようチームに指示を出していました。私も指導者をやっていて、球は急に速くなるものではありません。やはり、持って生まれたものはあったように思います」。
掛谷はリトルリーグ中国連盟の遠征などで、薮田とは縁があった。だからこそ、助言も惜しまなかった。
「フォームについてもありましたが、やはり走ることの大事さを伝えました。当時の彼は走ることが嫌いだと言っていました。でも、走って下半身を鍛えることは欠かせません。ウチのチームも、選手にはどんどん走るように指導してきました」 走ることの大切さ。これが、後に苦しい時期を迎える薮田の大きな支えとなっていくのである。
快速球を持つ少年は着実に成長していった。岡山理大付高のセレクションでは132キロをマーク、ウエート・トレーニングに取り組み体重が6キロ増加すると、2年生で148キロをたたき出し周囲を驚かせた。しかし、ここから険しい道が待っていた。2年秋には右ヒジを疲労骨折、ヒジは良くなったかと思えば悪くなり、
「もう無理。(野球は)あきらめて就職しよう」と考えたことすらあった・・・
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