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野球浪漫2018

ソフトバンク・加治屋蓮 “優男(やさお)”からの脱却 「突然、何が起こるか分からないですから」

 

大切な人との約束を果たし、プロの世界へ。しかし、右腕の人柄が飛躍を邪魔した。5年目のシーズン開幕を前に、コーチからの厳しい言葉で気づかされる。勝負の世界に“優しさ”は不要!強気な姿勢で、ついに自分のスタイルと居場所をつかんだ。
文=田尻耕太郎(スポーツライター)、写真=湯浅芳昭、BBM ※成績・記録は9月12日時点


同期たちとは対照的に


 マウンドには走って向かうのが、加治屋蓮の流儀だ。

「ダラダラ歩いていくのって何か違うと思うんです。子どものころ、ホークス戦をドームに観に来たことがあって、そのときに投げていたのが斉藤和巳さんでした。全速力でマウンドに向かう姿が、気持ちが出ていてとてもカッコよかった」

 9月9日、ヤフオクドーム。加治屋の名前が球場内にコールされた。今シーズン59試合目となる“ダッシュ”だ。出番は1対0でリードの8回。よほど信頼のおけるセットアッパーでなければ託されることのない、最高潮に緊迫した場面で送り出された。この時点で59試合登板はチーム内で一番の数字。パ・リーグでもロッテ益田直也にわずか1差の2位である。まさしくフル回転のシーズンを過ごしている。

「周りは疲れを心配してくれるけど、僕はどんな試合だって投げたいと思っています」

 登板数は信頼の証だと考えている。

「シーズンが始まったときは、こんな数字は想像もつきませんでした。ここまで来たら60だって70だって投げたいと思っています。周りの方はやっていれば自然と増えていくだろうと思っているかもしれませんが、僕にそんな考えはありません。突然、何が起こるか分からないですから」

 昨年まで、入団4年間で一軍マウンドは4試合しかなかった。

 2014年ドラフト1位でソフトバンク入り。松井裕樹(現楽天)、杉浦稔大(現日本ハム)をいずれも抽選で外しての「ハズレ、ハズレ」の1位だったが、球団は150キロ近い速球と140キロ台の高速フォークという類稀な武器に惚れ込んで高評価で指名をした。その証の一つが背番号だ。かつて守護神を務めてホークス球団で通算180セーブ(オリックス時代を含めると182セーブ)をマークした馬原孝浩氏の14番を継承したのだった。

 ブルペンで投げる姿は迫力十分だった。身長185cmの長身も武器である。しかし、試合のマウンドでそれを発揮できない。対照的に、同期でドラフト2位の森唯斗は投げっぷりの良さを評価されてルーキーイヤーから一軍に定着。結果的に今季まで入団から5年連続55試合以上登板と鉄腕ぶりを発揮している。さらに、同期の育成1位だった石川柊太も一昨年に支配下登録されると昨年、一気に大ブレークを果たした。

 一方で加治屋の飛躍を邪魔したのは優し過ぎる気持ちだった。打者の内角を厳しく突くことができなければ、どれだけの剛球や鋭い変化球でもプロの打者は対応してくる。

2013年秋のドラフトで、地元・九州のソフトバンクから1位指名され、笑顔を見せた


成人式に届いた一通の手紙


 加治屋の生まれ故郷を思えば、そんな好青年が育つのも無理はないかもしれない。出身は、温暖な宮崎県の中でも最南端に位置する串間市。東部は日向灘、南部は志布志湾に面しており、観光名所である都井岬には国の天然記念物にも指定されている野生の御崎馬(みさきうま)が棲息するなど、豊か過ぎるほどの自然に囲まれた環境の中で成長してきた。幼少期の遊びは、山にカブトムシを捕りに行くか、川遊びがメーン。野球と出合ったのは小学校3年生のときで、仲の良い友達が所属していた「大束野球スポーツ少年団」に入部した。両親からは「家での手伝いや犬の世話、宿題を毎日忘れずにやること」を野球を続けるルールとして決められ、その約束をきっちり果たしていた。

 その後は大束中で軟式野球部に所属。そして実家から自転車で30分ほどの県立福島高へと進学した。OBにはオリックスの西村徳文ヘッドコーチがおり、その当時に甲子園出場を果たしたが、加治屋自身は甲子園とは縁がなかった。それでも1年からベンチ入りし、2年秋からエースに。3年夏の最後の県大会では1回戦で高原高を1安打完封。2回戦は都城農高を相手に15回1失点と力投するも引き分け。その再試合も完投したが、0対2で敗退した。

 ところで、加治屋は高校2年の夏に信じられない出来事を経験している。雨の日だった。新人大会が中止となったところで監督から「お前は先に帰れ」と言われた。そういえば、いつもは応援に来てくれる父の姿がない。叔父が迎えに来て、その車中で母・伊津子さんが自宅で朝、亡くなったことを知らされた。心筋梗塞だった。あまりに突然のこと。前の晩に、最期に何を話したのかも覚えていないと、加治屋は言った。

 高校卒業後は社会人の強豪であるJR九州に入社した。高身長で高素材の右腕ではあったが、都市対抗の常連チームでは簡単に出番には恵まれなかった。

 20歳を迎えたときだ。成人式の日、母校の小学校で、卒業時に埋めたタイムカプセルを掘り起こした。その中には「大人になっている自分へ」と自ら書いたもののほかに、母からの手紙も一緒に入っていた。

 そこには、こう記されてあった。

「きっと今、プロ野球選手でしょうね。そのために少年野球を頑張っていたもんね。でも、もしも違うことをしていても一人の人間として他人に恥じることのないよう立派な人であることを願っています」

 絶対に夢を叶えてやろう……と、加治屋がどれほど気持ちを奮い立たせたか、想像に難くない。

 翌年の1月に両スネを疲労骨折して半年以上も投球どころか走ることもできない日々が続いたが、夢を持った男は決してへこたれなかった。「野球ができない間も、外から野球を見ることで配球などを学ぶことができた」。また、この期間に覚えたのが、現在の大きな武器となっている高速フォークだった。

「足は使えないけど、手は自由。ボールを持って握りを研究して、座ったままの状態でネットスローを繰り返しました」。それまではカーブ、スライダーを主体とする投手だったが、直球とフォークの2種類を軸とするスタイルを作り上げた。

 きついリハビリだったが、手を抜く性格でないのはまず間違いない。復帰するとフォームも固まり、最速150キロ超をマークするようになった。この年の秋に社会人入り後公式戦初登板を果たすと、翌4年目は主戦投手を担うようになり、都市対抗と日本選手権の社会人二大大会へとチームを導いた。

“優しさ”を捨てつかんだ信頼


 プロ野球選手になるとの夢を叶えた加治屋は、契約金の使い道について聞かれると「加治屋家のお墓を新しくする」と答えた。

 ただ、昨年までの4年間は振るわなかった。右肩痛や足首捻挫など故障に泣かされることも多かった。その右腕が、プロ5年目に大飛躍し、しかもフル回転できている。地道な努力の積み重ねがそこにあった。

「全体練習が始まる2、3時間前には球場に来て、体をほぐすなど準備をやっています。それはファーム時代から同じです。二軍はデーゲームが多かったのでしんどかった。朝6時起きは当たり前でした」

 自分に合うコーチにも巡り会えた。昨秋の宮崎キャンプ、加治屋はまるでメジャー・リーガーのようなフォームで投球練習を行っていた。古い例えで申し訳ないが、元巨人ガリクソンに似たフォームだった。

「右腕が上がるのが遅く、体が前に突っ込んでから出てくる悪いクセがありました。だから体が開いた状態で投げることしかできなかった。それを修正するための方法です」

 指導にあたったのは久保康生二軍投手コーチ。近鉄、阪神で計19年間も投手コーチを務め、今シーズンからソフトバンクへやって来た。就任発表直後、ユニフォームが出来上がるより早く若手の指導にあたっていた。その中で加治屋が目に留まったのだ。「ずっと相手チームとして見ていたからね。もったいないと思っていた」と久保コーチ。ほかの投手にも、例えばホウキを持たせてシャドーピッチングを行わせるなど大胆な練習法を取り入れていた。

 久保コーチは言う。「ずっと同じことをやってうまくいかなかったのだから、何かを変えるためには大きな波紋を起こさないといけないんだよ」。

 加治屋はオフのあいだも地道にトレーニングを積んだ。年が明けて今春のキャンプはB組でスタート。なかなか昇格チャンスはなかったが、ブルペン投球は見違えていた。

「キャッチャーに一直線にラインを描いて、その上に体を滑らせるイメージ」。体重移動がとてもスムーズになり、体をうまく使えることでボールに力が伝わるように。また、体の開きが抑えられたことで抜け球はなくなり、得意のフォークがしっかりと落ちるようになった。

 キャンプが終わりに近づいたころ、ようやくA組に呼ばれ、オープン戦にも帯同するようになった。

3月18日オープン戦のヤクルト戦[神宮]


 3月中旬、浴びせられた痛烈なひと言に加治屋ははっと目を覚ました。ライバルたちに負けない能力がありながら、それを生かし切れない状況に、倉野信次投手統括コーチがカミナリを落としたのだった。

「インコースに投げられないのなら、ユニフォームを脱げ」

 優しい性格で、内角のサインが出ると気後れして腕が縮こまった。それでは一軍はおろか、プロの投手で飯は食えない。3月18日のヤクルト戦(神宮)。無死満塁からリリーフで登板し、山田哲人に対して初球は思いっきり内角を突いた。その後、結果的に打たれて負け投手になったが、自分の中で何かが吹っ切れた。

3月18日オープン戦のヤクルト戦[神宮]、山田哲に打たれた加治屋だったが、確かな手応えを感じていた


 プロ5年目で初の開幕一軍キップをつかみ、最初は敗戦処理だったが、結果で首脳陣からの見られ方を変えていった。4月12日、日本ハム戦(ヤフオクドーム)。加治屋は2対0とリードした8回一死からマウンドに上がった。それまで5試合1失点と安定感の出てきた右腕に工藤公康監督は託したのだった。

 打者1人を打ち取っただけでお役御免となったが、プロ初ホールドをマーク。潮目が変わり始めた。

 4月の段階でセットアッパーの岩嵜翔、守護神のサファテが離脱したこともあり、加治屋への期待度は増していった。5月29日の阪神戦(甲子園)では0対0の8回1イニングを抑え、直後に味方が勝ち越したために勝利投手になった。翌日からは自身5戦連続ホールドを記録した。

 7月には監督推薦でオールスターにも出場。その後、調子を崩し、9日間もマウンドから遠ざかった時期もあった。加治屋自身は「私生活から見直します」と落ち込み、丸坊主で球場に現れたりもした。それでも、首脳陣は二軍に落とすことも、配置転換することもなく、再びセットアッパーの座を任せた。ブルペンを担当する高村祐投手コーチは「それがチームとしての考えだった」と言った。

 野球は投手力だとよく言われる。今のプロ野球は、その中でもリリーフ力の優劣が順位に大きく反映する。今季のソフトバンクは大きな柱を2本も失って苦戦した時期もあったが、気づけば首位を猛追して平成最後のペナントレースを大いに盛り上げている。加治屋がいなければ、まず実現しなかったと断言できる。

 9月9日、加治屋は59試合目の登板も無失点で抑えて、チームトップの24個目のホールドを記録した。

「今は球種のこととか、防御率とかあまり考えないようにしています。斉藤和巳さんにも『このまま頑張れ』と球場でよく声をかけてもらいます。僕は言われた場面で投げるだけだし、いつどんな試合でも投げさせてもらいたい。どれだけしんどくても、気持ちだけはしっかり持って臨みたいです」

 そして、加治屋はまたマウンドへ駆けていく。


PROFILE
かじや・れん●1991年11月25日生まれ。宮崎県出身。184cm85kg。右投右打。宮崎県立福島高からJR九州を経て2014年ドラフト1位でソフトバンク入団。昨季まで一軍登板わずか4試合と戦力になりえなかったが、今季は開幕一軍入りを果たすと、9月12日現在、リーグトップタイの60試合に登板。セットアッパーとしてチームに欠かせない存在となっている。
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苦悩しながらもプロ野球選手としてファンの期待に応え、ひたむきにプレーする選手に焦点を当てた読み物。

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