小さい頃から周りを笑顔にすることが好きだった。それが野球でできるのであれば、この上ない喜びだ。つらいことも多いが、それを乗り越えることができれば、みんなが笑顔になれる。そう知っているからこそ、どんなに苦しいときでも背を向けることはない。ふたたびファンの笑顔で囲まれた横浜スタジアムのマウンドに立つために──。 文=石塚隆(スポーツライター) 写真=BBM 出会ったことがすべて
世界中の誰よりきっと、熱い夢見てたから──。
今年の3月28日に横浜スタジアムで開催された
中日との開幕戦、入江大生は5点リードの9回表、597日ぶりに一軍のマウンドへ上がった。
右肩の不調により長く続いた戦線離脱。つらく苦しいリハビリ期間に、よく聴いていたのが、登場曲の『世界中の誰よりきっと』だった。マウンドへ向かう時、ハマスタに詰めかけたファンの同曲の大合唱に、入江は深く感謝し、勇気をもらった。
この日は緊張のあまり、最初の打者をストレートの四球で出塁させてしまうが、後続を3者連続三振で切って取り、復活をアピールした。そして2日後の同カード、入江は1点リードの9回表に登板し、無失点の投球でプロ初セーブを挙げた。
守護神が不在だったDeNAに明るい光が差した瞬間だった。
今季初登板でお立ち台に立った入江の目には、少しだけ光るものがあった。ファンの大声援を前に、入江は次のように思ったという。
「待ち望んでいた光景でしたし、とにかくチームから離れていてもファンの皆さんが待っていてくれて本当にうれしかった」 
今年の開幕戦で597日ぶりのマウンドに上がり、9回をしっかりと抑えた。お立ち台では涙をこらえきれなかった
入江にとってプロ野球選手として一番の喜びは、応援をしてくれる家族や仲間、そしてファンを笑顔にすることだ。だからこそ世界中の誰よりも、野球に熱い夢を見ている。
入江に野球人生において一番大きなターニングポイントはどこかと尋ねると
「野球というスポーツに出合えた瞬間ですね」と、真っすぐな目で言った。
1998年生まれ、栃木県今市市(現・日光市)出身。日光東照宮から車で15分ほどの自然豊かな風光明媚(めいび)な土地で育った。
幼少期はとにかく目立ちたがり屋の子どもだったという。
「常に人の前に出たいというか、運動会ではリレーの選手には絶対になっていたし、教室では友だちとコンビ組んで漫才をしたり、とにかく人を笑わすのが好きでしたね」 その気質は今も変わることはない。
平成の世も深まってはいたが、地元の人気の遊びは草野球だった。誰を気にすることなくボールを打ったり投げたりできる場所がたくさんあった時代、入江は小学1年生から友人たちを巻き込み草野球に明け暮れていた。
そして部活動がスタートできる小学3年生の時、入江はついに本格的に野球と向き合うことになる。
「親は共働きなので放課後は学童保育に入っていたんですけど、僕たちが遊んでいるグラウンドと野球部のグラウンドが隣接していたんです。そこにボールが転がってきて、当時の監督に投げ返したら『おう、いいボール投げるな。野球部に入れよ!』と言われて、もう単純なので、これは野球をやらなければいけないと思ってしまったんです」 初練習の前日は、ワクワク感でなかなか眠りにつけなかった。しかし、空を見上げるとあいにくの雨模様。だが入江少年はそんなことは関係なく朝早くグラウンドに向かった。
案の定、練習は雨天中止だった。
「今でも覚えていますけど、僕は職員室まで先生に言いに行ったんですよ。『練習できます!』って。いや、全然無理だったんですけどね」 そう言うと入江は懐かしそうな顔をして笑った。すでにそれほど野球に夢中だった。上級生に食らいつき懸命に練習をした。練習がない日は、家の前の壁にチョークで印をつけて壁投げに没頭し、軟球をいくつもツルツルにした。両親は学生時代、文化系の部活動だったのであまり野球の知識がなく、それもあってか伸び伸びと好きなように野球をやらせてもらった。
とにかく野球が好きでたまらなかった。入江は、人生の“宝物”に出会った。
野球人生を変えた二人
中学校に入ると、県央宇都宮ボーイズに入団した。硬式をやろうと思ったのはなぜなのだろうか。入江は述懐する。
「甲子園を見ていると、ボーイズやシニア出身の選手が多くなってきて、母が、上を目指すのであれば入ったほうがいいんじゃないって言ってくれたんです」 入江のなかに
「プロになりたい」という淡く漠然とした夢が芽生えていた。
「実はもうひとつ宇都宮ボーイズに行く理由があって、一緒にプレーしたい親友がいたんです。今でも家族ぐるみの付き合いをしている碇大誠という友人ですが、とにかく野球がうまくて、一緒にやろうって。碇は小学生のときすでに入団していたので、僕が後を追うような形でした」 入江は、碇の背中を見ながら自身を高めていった。いつしか二人はチームの中心となり“ダブルタイセイ”は地元で有名になった。
「僕がピッチャーの時は碇がセンターで、碇がピッチャーの時は僕がセンターで四番を打って得点をするのがパターンでしたね」 地元じゃ負け知らずの二人は、投打で活躍するとチームを全国ベスト8へ導いた。
「お山の大将というか、野球人生で一番調子に乗っていた時期だと思います」 そう言うと入江は、いたずらっ子のような表情をして笑った。
高校は地元の名門である作新学院高へ進んだ。いくつかの高校から勧誘があったが、作新学院高へ行く決め手となったのは、やはり碇の存在だった。
「碇が作新に行くというので、彼となら甲子園を目指せるのではないかと考えて、僕も行くことを決めました」 名門での日々は想像を絶する厳しい日々だったという。
「今思えば素晴らしい環境だったのですが、とにかく中学生のときは親がすべてをやってくれていたのに、高校で寮に入ると自分のことはもちろん、当時は先輩の手伝いもしなくちゃいけなくて、常に時間に追われているような感じでした。練習もものすごくきつくて、あまりにも疲れてしまい、なんか授業中、窓の外を見ながら無意識に涙が頬をつたっている時もありましたね」 心身ともに追い詰められることはあったが、それでも野球をやめたい、逃げ出したいと思うことは一度もなかったという。
「やっぱり単純なんで、甲子園に行きたいという気持ちが強かったですし、やっぱり自分が活躍すると、周りの人が喜んでくれるので、その顔を見たくて頑張れましたね」 入江は1年秋からベンチ入りをし、2年夏には1イニングながら甲子園のマウンドを踏んだ。そして3年春からエースとなるのだが県大会で打ち込まれ、その座を同学年の
今井達也(現・
西武)に奪われてしまう。
ただ打撃力に定評のあった入江は、四番ファースト兼投手としてチームの中心となり、夏の甲子園では史上7人目となる3試合連続本塁打を放つなど大活躍し、作新学院にとって54年ぶりとなる2度目の全国制覇に貢献をした。

作新学院高3年時は夏の甲子園で3試合連続本塁打を放った
悲願の優勝。けれども入江は現実のものとは思えなかった。
「正直、当時は自分たちが日本一になれるとは思っていなかったんですよ。だから優勝の直後は信じられなかった。でも地元に帰ってきた時、その日は台風が来ていてとんでもない豪雨だったですけど、駅にたくさんの人が出迎えに来てくれていて、すごいな、ああ俺たち優勝したんだなって実感することができたんです」 過ぎ去りし青春の日々。入江の世代は、その後ドラフト1位でプロになる今井がクローズアップされることが多かったが、改めて今井とは入江にとってどのような存在だったのだろうか。
「投げているボールはすごいなと思っていましたが、当時はライバルだとは考えていなかったんです。とにかく先輩たちがつないできた甲子園連続出場が最大の目標で、それが達成できればエースじゃなくても四番じゃなくてもよかったんです。だから今井は、ライバルというよりも勝つための仲間でした」 よきチームメートであったが、それでも今井の存在は入江を嫌でも刺激した。入江は高校卒業後、明治大学への進学を決めていたが、一緒にプレーした今井がドラフト1位指名されたときは衝撃だった。
「正直、自分はプロというのをあまり意識していなかったのですが、身近な存在がドライチになったことで、その思いが以前よりも強くなりましたね。正直、こんな田舎町からドラ1が出るんだという驚きもあったしうれしかったんですけど、僕も頑張らないといけないなと思いました」 みんなのためが、自分のため
明大に入ると基本、投手一本に専念をした。いよいよプロへのプロセスをまい進するかと思いきや、入江という人間は、ここまでの言葉からも分かるように決して猪突猛進の性格ではなく、一歩引いて冷静に自分のことを見られる人間だ。あくまでもプロは漠然とした目標であることを前提に、計画的に大学生活を送ることを決めていた。
「4年間を考えた時、1、2年生は正直、あまり野球に重きを置かず、これまで普通の人ができていて、自分ができなかったことをしようと思ったんです」 野球密度が高かった高校3年間を経ての正直な心情だった。
「社会経験など、今後生きて行く上で必要なことを学びたかったんです。もちろん野球の練習は続けていましたけど、めちゃくちゃいい2年間になりました」 世間や世界を知ること。人並みに遊び、キャンパスライフを謳歌(おうか)する日々。長い人生を考えれば大切なことであることは間違いなく、逆にそれが自分自身の中にある“野球”という大切なモノの輪郭を色濃くすることにつながっていった。
「プロに行きたい」 入江の中で、漠然とした淡い思いがついに熱い夢として具現化した。
「3年生になって1学年上の森下暢仁(現・広島)さんから『一緒に練習やるぞ!』と言われて、自分で頭を丸めたんです。遅いかもしれないけど3、4年生の2年間は野球をやり込むのは当初のプランでしたし、本当、時が来たって感じだったんです。プロになれるか分からないけど、これが最後になるかもしれないって、悔いなくとことんやろうと思ったんです」 まずは肉体改造に着手した。フィジカルの上にスキルが積み重なるという考えから、1年間で体重を8kgアップした。球速は目に見えて上がり、150キロを超えるようになった。そして4年生になるとエースとしてチームをけん引する。新型コロナ禍により試合数の制限などはあったが、それでも入江は抜群のキレを持った投球で存在感を示し、スカウトから高評価を受ける選手に成長をした。また1学年下には、後にDeNAに入団する
竹田祐がおり、その存在が入江を刺激したという。
「めちゃくちゃ練習をする選手でしたし、気を抜いていたら追い越されてしまうと、俺もやらなきゃいけないなと思わせてくれる存在でした。竹田に限らず、森下さんや伊勢さん(伊勢大夢、現・DeNA)、また4年生の時に監督が代わるなど、いろんな出来事や縁が重なったことで、今の自分があると思っています」 
本格的にプロを目指して努力した明大時代。チームメートに恵まれたことで大きく成長した
そして2020年10月26日に行われたドラフト会議で入江は、DeNAから1位指名を受け、かつて“大魔神”と呼ばれた
佐々木主浩が着けた22番を背負うことになる。
「ラスト1年間は夢にもドラフト会議が出てくるぐらいで、自分なりにプレッシャーを感じていたと思います。だから指名を受けた時は、うれしいというよりもホッとしました。とりあえずスタートラインに立てたなって」 ただ、プロ入り後は度重なる故障で苦しい時間が続いている。学生時代はまったくケガをしなかったのに、なぜだと悩んだこともあった。5年目の今季は復活して序盤こそ守護神として存在感を見せたものの、夏場に右上腕の神経障害を起こし、登録抹消されると、その後、調子の波を取り戻せずにシーズンを終えている。喜びもあれば苦しいことも多い世界。正直な気持ちを入江は吐露した。
「今年は打たれたら打たれたでもちろん、抑えたとしてもずっと苦しかったんです。最初、9回を任されたときは眠れなくて、朝4〜5時ぐらいまで起きていました。ただ最近思うんですよ。決して長くはない野球人生、こんな苦しんでやっていても意味はない。楽しみながらやりたいなってマインドになってきました」 熱い夢である大好きな野球をシンプルに謳歌し、多くの人を笑顔にしなければいけない。
「いい時も悪い時もこれと決めたらやり抜くこと。そして僕がこうやって野球に向き合えるのも、家族や苦しいときに励ましてくれた友人や仲間たち、ファンの方々の喜ぶ顔が見たいから。利他的というか、本当にそういう気持ちなんですよね」 しみじみとした様子で入江は言った。そして目線はすでに来季へと向かっている。
「今年はいろいろな経験ができたシーズンだったので、来季はこれを生かし、1年間安定した成績を残したいと思います。打たれても打たれても声援を送り続けてくれたファンの方々の存在は本当にありがたいし、力になっています。そんな応援してくれるファンの方々が『入江、いいよね』と言ってくれるような成績を来年は残したいです」 
ダイナミックなフォームから150キロ台後半のストレートを投げ込む。来季はもう一度、本来の威力を取り戻す
PROFILE いりえ・たいせい●1998年8月26日生まれ。187cm90kg。右投右打。栃木県出身。[甲]作新学院高-明大-DeNA21[1]