甲子園を夢見ていた少年が、初めて聖地に降り立ったのはプロ野球選手になってからだった。オールドルーキーとしてプロ入りを果たし、今年で30歳の節目を迎える。紆余曲折を経て、飛び込んだ勝負の世界。野球ができる喜びを全身で感じている。 取材・文=土屋あいり(中日スポーツ) 写真=BBM 甲子園への想い
2026年4月19日。福永裕基は滋賀県東近江市にある実家にいた。前日18日の
阪神戦(甲子園)、三塁守備でファウルフライを追いかけた際にカメラマン席に転落。救急搬送され、脳しんとう特別措置で登録を抹消された。19日は完全休養。実家で安静にしていると、母親が一冊のアルバムを取り出してきた。懐かしそうにページをめくる。
「昔、甲子園で高校野球を見に行っていたときの写真でした。両親が撮ってくれていたんだと思います」 時はさかのぼる。05年8月19日、夏の甲子園。大阪桐蔭高と駒大苫小牧高の準決勝をスタンドから見つめていた。
「強くなりだしたころの大阪桐蔭。平田(平田良介)さん、中田(中田翔)さんがいましたね」 試合は大阪桐蔭高のエース・
辻内崇伸と駒大苫小牧高のエース・
田中将大の投げ合い。野球を始めたばかりの小学3年生は、大阪桐蔭高に強い憧れを抱いていた。
根っからの高校野球マニア。選手名鑑を端から端まで読みあさり、出場チームで日本地図を覚えたようなものだった。自身も地元の布引ハンターズで野球に没頭。毎日、家に帰ってからは壁当てに明け暮れた。自分が打ってチームが勝つと喜びもひとしお。竜王ジャガースに所属した中学3年夏には全国大会の舞台も経験し、甲子園でプレーしたいという思いは強まるばかりだった。
その願いをどこのユニフォームで実現しようとしたのか。ここから長い道のりが始まった。
大好きだった大阪桐蔭高は「実力で通用する気がしなかった」と進学先の選択肢には入れなかった。第一希望にしたのは慶応高。推薦入試に挑戦し、一次試験は書類選考を通過した。
二次試験は集団討論と個人面接。
「6人ぐらいで1つのテーマを討論するような試験でした。確か『外国人に日本文化を紹介します、あなたならどういう提案をしますか?』みたいな感じだったと思います」 残念ながら、結果は不合格。ここから天理高と近江高を一般受験で合格し、
「慶応がだめだった時点で、もともと決めていました」と選んだのは天理高。野球部の入寮テストにも合格し、晴れて高校球児になった。
福永にとって、野球をするうえでの大きなモチベーションとなる出来事は高校時代に起きている。1年夏に天理高は甲子園に出場し、準々決勝で大阪桐蔭高に敗れた。当時はベンチ外だったが、
「頑張っていれば、きっと自分にもチャンスはある」と励みになった。同年秋からベンチ入りを果たすと、チームの中軸打者に成長。このまま努力していれば、必ず甲子園に行ける──そう信じてやまなかった。迎えた3年のラストイヤー。ここでアクシデントが起こった。
「夏の大会前に右肩を痛めたんです。痛み止めを飲んで、無理をして出ていました」 必死に痛みを押し殺して、奈良大会決勝まで勝ち進んだ。14年7月28日、智弁学園高との大一番だった。
「緊張し過ぎて、当日の朝に吐いた気がします」。あと一つで夢の舞台が待っている。意を決して臨んだが・・・
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