右肘痛から始まり、度重なるケガで苦しんだ。先の見えないリハビリ生活を支えてくれたのは、周囲の人たちの温かさと、懸命に野球にしがみつく仲間だった。足踏みした歳月を糧に、野球への思いを爆発させる。 取材・文=島村誠也 写真=大泉謙也 暗闇からの脱出
9月30日、
阪神甲子園球場。奥川恭伸は強力タイガース打線を相手に6回2失点と粘りのピッチングも、0対5で敗戦。シーズン最後の登板を白星で飾ることはできなかった。
「来年のためにも勝たないといけない。強い気持ちで臨んだのですが、主力選手に打たれ、強い阪神を痛感して『勝てないな』と思ってしまった自分に腹が立ちました」 ただ、悔しさと同時にすぐに、やる気もみなぎってきた。
「試合直後に冷静になって映像を見ると、課題が見えてきて、そこをクリアできれば来年は戦っていけるんじゃないかって。来年はこうしようと、コンディションにも不安もなく、こうして前向きになれるのは本当に久しぶりなので、そういう意味ではすごく良かった」 ──2024年6月9日、ヤクルト二軍・戸田球場。
奥川の足取りは軽快だった。右肘痛から始まった2年に及ぶ、度重なるケガを乗り越え、翌日の一軍合流が決まっていたからだ。
「僕は、まだまだ野球大好きな野球小僧です」 この日、奥川が何気なく発した一言が記憶に残っている。あれから2年。
「この時期は、野球が嫌いになったというか、これだけ苦しいなら野球をやめようと思ったこともありました。リハビリはつらくて、練習にも行きたくない。練習に行っても立ってるだけでもしんどかったんです」 周囲は右肘の手術を勧めたが、保存療法を選択していた。
「ただ、リハビリをしながらも、投げられるようになるのか分からない状況でした」 奥川にとって、野球は常に楽しいものだった。中学3年の夏には全国中学校軟式野球大会で優勝。星稜高では3年の夏に甲子園で準優勝。3回戦の智弁和歌山高戦では延長14回を投げ切り、23奪三振の快投を見せた。プロ2年目には9勝してチームの日本一に貢献した。
「それまでが順調な野球人生だったので初めての挫折でした。自分が生きていくには野球しかないのに、野球ができない。ここまでリハビリしてきたのに、結局、オペすることになればさらに時間がかかる。それを考えたくないけど、考えざるを得ない。すごく病んでいました」 暗闇の中にうずくまる奥川に希望の光を与えてくれたのは、チームのトレーナー、外部の治療院の医師、そしてチームメートだった。
「専門の方が『焦らずにやっていけば治るから』って。その言葉だけで気持ちが切れずに、つながることができたんです」 球場に隣接する陸上競技場で、
原樹理(現ヤクルトスカウト)や
近藤弘樹(現
楽天スカウト)らとリハビリメニューを黙々と消化した。
「樹理さんは、僕の精神状態を分かっていて、プライベートでも強引に食事に連れて行ってくれた。その思いやりに、まだ頑張ろうという気持ちになれました」 近藤とは大阪の治療院へ一緒に通った。近藤は右肩甲下筋肉離れ、肩関節亜脱臼、前方関節包靭帯(じんたい)断裂、棘下(きょくか)筋と棘上筋損傷からの復帰を目指していた。
「近藤さんは、僕なんかよりも大きなケガをした中で、野球にしがみつきリハビリに懸命でした。その姿を見るとまだまだあきらめてはいけないなって。最悪の2年間を経たからこそ、野球ができる喜びに、やっと気づけた。だから、その言葉になったと思います」 壊れかけた投球感覚
6月14日、奥川は
オリックスとの交流戦(京セラドーム)で、
「光を与えてくれた方たちのためにも絶対に勝つ。その気持ちだけでした」と、マウンドに向かい980日ぶりの勝利投手となった。
この試合では、
武岡龍世、
長岡秀樹が二遊間を守り、
大西広樹は奥川からマウンドを引き継いだ・・・
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