プロ野球現役最年、48歳(取材当時)の中日・山本昌投手が31年目となるシーズンを迎えた。前人未到の境地へのチャレンジを続ける山本昌がその心境を語った 取材・構成=小森典弘 写真=松村真行、BBM ルーキー時代と5年目のアメリカ留学 ──いよいよ、31年目のシーズンを迎えました。今の心境はいかがですか。
山本 こうやって今年もキャンプ地に来て、記者の方たちにはよく31年目と聞かれますけど、幸せなんでしょうね。こうやって31回も、プロ野球選手にとって正月のようなことを過ごせるというのは、後から振り返ったときに、凄く幸せなことだったんだなと思うだろうなと。今季も契約していただいてキャンプに連れてきてもらって、球団には本当に感謝しています。
――2軍のキャンプ地である読谷でのスタートは3年ぶりです。
山本 そうですね。前は、結構7年ぐらい連続で読谷でやっていたんですよ。何か、あっと言う間に10年ひとくくりくらいで過ぎている感じがするんで、ずっと読谷にいるような、(一軍キャンプ地の)北谷にもいるような錯覚をいつも覚えるんですよ。自分としては、毎年こうやって淡々とキャンプ入りすることは、今は普通の感覚なんですけど、多分、引退したときにキャンプできないんだと思った時に、凄く淋しくなるのかなと思いますね。
――読谷で若い選手たちに交じってのキャンプというのは?
山本 高校を卒業したばかりのルーキーのご両親が、僕より年齢が下というのは普通のことなんでね。なんだか不思議な感じはしますね。その中に入って、同じメニューで初日からやっているというのも。でも、僕も(ルーキー時代は)こうだったなという思いはありますね。要領がまだわかんないだろうなとか、そういうことを思いながら一緒にやってますけどね。
――ちなみにこれは、84年に山本昌選手がプロ入りした時の選手名鑑です。
▲目標は、日大藤沢高時代に神奈川県予選の準々決勝で投げ合った同期入団の三浦将明投手に負けたくないとの記述が。「プロで一勝したいとかじゃなくて、こんなことを目標にしている時点で、まだガキだったというか。言うことがずれてますよね(笑)」(山本昌)
山本 うわーっ!(笑)。
――結構、面白いことが書かれていまして、好きなタレントさんが堀ちえみさん。
山本 ファンだったんですよ。一度だけお会いしたことがあって、凄く感激しましたね。まだ、当時はガキだったですね。30年前ですもんね。なつかしいなあ。
――このときは、同期入団の三浦将明投手に負けたくないと書かれています。
山本 彼は甲子園で連続準優勝しているわけですから、高校時代は彼に勝たないと甲子園に出られないと頑張ってきましたので、たまたま(プロで)同じチームになったので、負けたくないと。(目標も)まだ、こんな感じですよね。プロに入って一勝したいとかじゃなくて。しかし、当時のドラゴンズのメンバーのなかで、よく34番をもらえたなあ、というのは不思議な感じがしますね。
――確かに凄いメンバーでした。
山本 ねえ。僕らのころは、3年間ローテーションに定着すれば、一桁や10番台という背番号になったりというのはあったんですけど。僕らは、たまたまドラフトで上位順から空いている背番号をつけてもらって、それでいただいた番号が34番だったんです。でも高卒の選手が、こんないい番号をいただけたことは、プロ入ったときからついていたんだなと。今思えば奇跡ですね。
――中日入団後はなかなか目が出ませんでした。ターニングポイントになったのが、88年のドジャース、ベロビーチへの留学ですね。
山本 そうですね。あの留学がなければとっくに終わっていたでしょうね。その年で終わっていたかもしれません。
――それまでは、クビになるかもしれないと、常におびえていたということですが。
山本 クビとは毎年背中合わせで、毎年秋季キャンプが終わって契約更改の席に着くまではいつもびくびくしていましたね。球団に呼び出されたらどうしようって。「秋季キャンプいかなくていいよ」とか言われたりとか、そういう先輩たちの姿をいつも見ていましたからね。電話来たらどうしようと、毎年びくびくしていた記憶があります。