プロ野球の選手寿命は間違いなく伸びている。かつては30歳代の半ばを過ぎると、もう盛りは過ぎたとして後進に道を譲ったものだが、40歳になっても依然としてグラウンドに立っている選手も珍しくない昨今である。セ・リーグで首位を走る巨人でも、この4月3日に満40歳になった高橋由伸がスタメンに出るのが珍しくなく、中日から移籍してきた井端弘和も5月12日に40歳になったが、いまや規定打席に到達している。 
41歳となった現在も第一線で輝きを放つDeNAの三浦大輔。その円熟味あふれるピッチングと存在感で投手陣をけん引し続けている
日本初の40歳代選手は巨人の山本栄一郎
今年中に40歳に達する選手は投打合わせて22人もいる。DeNAの三浦大輔は12月で42歳になるが、開幕から3連勝。中日の
山本昌はまだ二軍で整調中だが、65年8月11日生まれとあって、一軍に登板すれば日本球界初の満50歳の選手になる。
かつてのプロ野球では50歳はおろか、40歳の選手も珍しかった。日本のプロ野球に初めて40歳の選手が登場したのは誕生2年目の37年春の
岡田源三郎である。明大時代は万能選手で鳴らし、最後は捕手で落ち着いた。11年の現在のプロ野球誕生と同時に金鯱軍の総監督に就任したが、あまりの弱さに自ら捕手として出場。37年春、38年春、秋、39年と24試合に出場し、18試合はマスクも被った。52打数15安打で.288、12打点の記録を残している。37年春は41歳であるから、43歳までプレーしたことになる。
2人目は42年(昭和17年)の巨人の
山本栄一郎外野手である。34年に来日する米球団を迎えるために結成された全日本軍に参加し、引き続いて巨人に入団。42年まで選手兼任のコーチ格で在籍。42年6月29日の朝日戦(西宮球場)に9回裏、代走でこの年初出場し、これが最後の出場となったが、02年3月8日生まれとあってこの日40歳3カ月だ。
次に40歳の選手が登場したのは戦後のプロ野球復活3年目の48年である。
阪神で監督兼任投手の
若林忠志が自ら48試合に登板して17勝20敗。その年の阪神は首位の南海に17ゲームも離されての3位とあって、若林は外野も2試合守るなど苦労した。48試合に登板して29完投と、まだ継投策などない時代とあって、33試合に先発して26完投と現代の投手たちには想像もできない酷使を強いられていた。
48年には若林のほかに、阪急の
井野川利春も本職の捕手として1試合のほかに代打で2試合に出場。選手不足の時代とあって、昔の経験を活用させられる時代であった。50年はこうした往年の選手がかり出される例が多かった。
阪急の
戸倉勝城は戦後に都市対抗野球を契機にプロ入りしていたが、54年には40歳で打率.300をマークし、40歳で打撃10傑の5位に登場。戸倉は41歳の55年には.321で3位、42歳の56年も.295で5位と、寿命の長さを誇っていた。40歳以降に10傑入りしたのは11例あるが、そのうち3例は戸倉によるものである。
60年代になると、40歳代の選手は姿を消す・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン