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岡田彰布コラム

岡田彰布コラム「球児とはホンマに古い付き合い。オレの監督最後の試合で球児が打たれて負けたけど、悔いはまったくないよ」

 

2008年10月20日、緊迫の試合展開の中、オレは球児をマウンドに。結果打たれてオレは監督を辞したけど「最後お前でよかった」とホンマに心の底から球児に伝えたよ/写真=BBM


もしあのときトレードが決まっていたら……


 監督時代、オレは選手たちのことをニックネームや名前で呼ぶことはほとんどなかった。でも、ただ一人、例外がいた。それが藤川球児やった。オレの中では藤川……は球児。球児はいくつになっても、球児なんよね。

 携帯電話が震えたのは8月30日やった。着信を見ると球児からやった。このとき、予測はできた。「ついに……」と頭をよぎった。電話に出た。落ち着いた声。「今年限りで……」と切り出しあと、オレは「分かった。ホンマ、ありがとう」と返した。



 球児とはホンマ、古い付き合いになる。阪神の二軍監督のとき、初めて見た。ドラフト1位で入団したが、体はプロのそれではなかった。線が細くてね。しかし、体中から“センス”があふれていたことを思い出す。キャッチボール、けん制、フィールディング。すべてにセンスがあった。ただ問題はスタミナやった。先発として投げさせたけど、終盤になると、ガクッとスピードが落ちた。ちょうど2000年やったか、二軍のウエスタン・リーグのトーナメント大会があり、オレは球児を先発に立てた。ただし登板前に伝えたことがあった。「これで失敗したら、先発はもうないぞ!」ってね。

 危惧したとおりの結果やった。終盤に入り、スタミナが切れたのか、2本のホームランを浴びた。これで球児自身、吹っ切れたのではないだろうか。次のステップ、セットアッパーへの転機となったわけだ。

 2002年、星野(星野仙一)さんが監督に就任し、2003年の4月(11日)やった。東京ドームでの巨人戦で球児は大詰めでマウンドに立った。7対1から3点を返され、なおも二死一、三塁。3点差で走者が2人の場面。そこで代打の後藤(後藤孝志)に同点3ランを食らったのである。引き分けに終わった試合後、星野さんはミーティングで、球児への継投を「オレのミス」と言った。球児はショックやったと思う。その後、登板機会がなくなり、シーズンが終わる。

 星野さんが退任し、オレが監督になった。そこに、こんな話が飛び込んできた。球児がトレード要員である……とのこと。それもかなり具体的に話は進んでいた。球団に確認すると、ヤクルト広島から申し入れがある、と聞いた。オレは球団に掛け合った。球児を残してくれ、残すべきと訴えた。もし、あのときにトレードが決まっていたら、間違いなく阪神の歴史は変わっていたに違いない。

勝ちパターンでは必ず球児を投入した


 先週号でも書いたが、04年、オレの監督1年目に球児と久保田(久保田智之)のリリーフとしての適性をテストした。その結果、十分に任せられると判断し、そして05年シーズンから本格的に投手陣の強化に入った。

 オレはこんな考えを持っていた。試合の分岐点になるのは7回。野球では「ラッキー7」がある。ということは守る側は、このラッキー7を食い止めればいいわけよ。だから、この勝敗を分けるイニングを球児に任せることにした。というのも、そのころには球児はホンマ、プロの体になっており、ストレートの球速はグングン伸びていた。三振が取れるストレートはホンマ、魅力的でさえあった。

 それともうひとつ、当時の先発スタッフで完投能力のあるのは井川(井川慶)ひとりやった。そういう事情もあって、オレはとにかく勝利の方程式、勝ちパターンの確立に、球児を組み込み入れたのである。

 05年のあのJFK……。その後、球児をクローザーとして起用してきた。時には数多く連投させた。無理をさせてはいけない、と思っているが、勝てる展開になれば球児を投入する。こんなことは、オレと球児、2人しか分からぬ感情だったと思う。だから、負けている展開では決して球児をマウンドに送らなかった。

 その結果、05年にはシーズン80試合登板、そのほかにも70試合のシーズンもあったが、それだけチームとして、勝ったということにほかならない。さらに球児をそんな展開で投げさせないとなれば、野手は納得しなかったと思う。クローザーとしての球児は、そこまでの存在感を作り上げたのである。

 オレの阪神での5年間の監督生活。リーグ優勝は1度だけだったが、常に優勝争いをした中心には球児がいた。そして最後の試合となったのが08年10月20日のクライマックスシリーズ、中日との3戦目となった。0対0で進んだ緊迫のゲームは9回表、オレは球児をマウンドに送った。二死三塁、打席にウッズ。ここは選択肢として、四球もあった。でも任せた。配球も矢野(矢野耀大現阪神監督)とのバッテリーに任せた。

 すると球児はストレートで攻めた。矢野がベンチを見る。その視線から、変化球を投げさせたい……と考えているのが読み取れた。でも、球児はこのとき、真っすぐにこだわったのだ。もし、フォークボールを投げていたら、三振に取れていた、とオレは今でも思っている。しかし悔いはない。ストレートにこだわった球児に託したのだから……。3ボール2ストライクから渾身の150キロの真っすぐ。ウッズに浴びた2ランを見送りながら、オレはこれでよかったと思った。

 この試合が監督として最後になった。ゲーム後、オレはグラウンドでファン、選手に見送られた。球児を見たとき、泣けてきた。球児も泣いていた。「お前で終われて、よかった」と彼に伝えた。



 右腕の状態は相当悪いのだろう。あれだけストレートにこだわったのだから、無理もない。打てるものなら打ってみろ!! と最後までストレートにこだわり続けた球児……。ラストシーズンを悔いなく。そして、その後にオレは本人に「ご苦労さん」と伝えたい。(デイリースポーツ評論家)

PROFILE
岡田彰布/おかだ・あきのぶ●1957年11月25日生まれ。大阪府出身。北陽高では1年夏の甲子園に出場し、早大では東京六大学リーグ歴代1位の打率(.379)と打点(81)をマーク。80年ドラフト1位で阪神に入団。1年目からレギュラーとして新人王を獲得。21年ぶりのリーグ優勝、日本一を達成した85年は五番打者としてベストナイン、ゴールデングラブ賞。94年にオリックスへ移籍し、95年限りで現役引退。通算1639試合、打率.277、247本塁打、836打点。オリックスで2年間指導の後、98年に阪神復帰。二軍監督などを経て、04年から08年まで監督を務め、05年はリーグ優勝に導いた。09年から12年はオリックスの監督として指揮を執り、13年からは野球解説者として精力的に活動している。
岡田彰布のそらそうよ

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選手・監督してプロ野球で大きな輝きを放った岡田彰布の連載コラム。岡田節がプロ野球界に炸裂。

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