阪神二遊間列伝特集のスタートは、本誌人気連載コラムを執筆している岡田彰布前監督の特別版から。自身も二塁手として球団初の日本一に貢献。監督としても2度のリーグ優勝と日本一になる中で、それぞれで大胆な二遊間のコンバートも行った。そのあたりの裏事情なども語ってもらった。 写真=BBM 
平田[写真中央]とのコンビでゲッツーの練習を繰り返しやった。あうんの呼吸でプレーできていたわ
85年にセカンドへ 平田と必死に練習した
自分がプロに入ったころ、守りでの花形は「三遊間」というイメージが強かった。それはやはり
巨人の長嶋(
長嶋茂雄)-廣岡(
廣岡達朗)、阪神の三宅(
三宅秀史)-吉田(
吉田義男)のインパクトがすごかったからやと思う。ただ、実戦の中で重要視されていたのがセンターラインとされる「二遊間」。これもまた事実である。
オレが阪神に入団したころの二遊間は、まずショートが真弓(
真弓明信)さんでセカンドが中村(
中村勝広)さん、榊原(
榊原良行)さん、そして
加藤博一さんやった。オレは学生時代に三塁を守っていたが、阪神には掛布(
掛布雅之)さんという不動の存在が。守りの意味では最も入ったらアカン球団に入ったということなんよね。
それで1年目から時の監督、
ブレイザーのプランの下、外野練習をスタートし、並行して二塁の練習を続けていた。だから当初は二塁の控えという立場でベンチに入っていた。
そういう状況が続いた1984年のオフやった。新しく監督になった吉田さん、ヘッドコーチの一枝(
一枝修平)さんから二塁への本格コンバートを告げられた。真弓さんは外野へ。そして二遊間コンビを組むのが平田(
平田勝男)やった。
「センターラインを強化したい」。首脳の方針でオレと平田はひたすら練習に励んだ。85年の2月。高知・安芸キャンプ。2人の練習量は相当やった、と振り返ることができる。大事なのは2人のコンビネーションで、特に併殺プレーはホンマ、重要視したわ。
この場合のコンビネーションとは、例えば4-6-3の併殺プレーの場合、4が6にどういう送球、トスをするかにかかっている。オレは平田に送球する場合、オレから見てセンター方向に投げることを続けた。これは・・・
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