今季、最多安打の記録を更新し、大ブレイクしたのが
秋山翔吾(埼玉
西武)だ。その秋山を「プロで最も対戦してみたい打者」に挙げたのが、
阪神にドラフト4位指名された
望月惇志。2人は横浜創学館高校の先輩、後輩にあたる。
もともとプロを志望していた望月だが、高校卒業後は大学か、あるいは社会人で経験を積んでからと考えていた。そんな彼が、高卒でのプロ行きを考え始めたのは、3年春のことだ。2年秋まではほとんど140キロ未満だった球速が、ひと冬を越えて、3月8日の対外試合の解禁日に行われた練習試合で、いきなり144キロを計測したのだ。その後も球速は伸び続け、4月2日の練習試合では148キロをマーク。自らの成長に自信をつけた望月。それまで「夢」だったプロ野球の世界が「目標」へとなっていった。

背番号は61に決まった望月投手。最速148キロのストレートが武器だが、スプリットにも自信を持っている
果たして、何が球速アップにつながったのか。ひとつは、秋に筋肉量を計測した際、下半身に比べて上半身が不足していたことが判明。そこで肩回りや腕を中心に「投げるのに必要な筋力」を重点的に鍛えた。すると、ボールが明らかに変わったという。
「それまでは、ボールが垂れてしまって、キャッチャーもグラブを下に向けて捕りづらそうにしていたんです。それが、今年の春になって投げてみたら、低めのボールでも垂れることなく、そのままキャッチャーのミットにスパンと入るようになったんです。自分でもボールが変わったな、とわかりました」
その後、横浜創学館のグラウンドには視察に訪れるプロのスカウトの姿がよく見られるようになった。そのことが、望月のプロへの意識を強めていったのだ。
身長187センチの望月は、入学当初から将来のエース候補と目されていた。中学時代、ボーイズリーグで全国大会に出場した経験もある望月自身も、その自覚は十分にあったに違いない。実際、彼は2年秋からエースとしてチームを牽引した。だが、順風満帆だったわけではない。
試練が訪れたのは、1年秋のことだ。地区予選でベンチ入りをしたものの、一度も登板機会を与えられなかった望月に、チャンスが与えられたのは、県大会前に行われた練習試合だった。その日初めてレギュラーチームの先発に抜擢された望月は、初回を無失点に抑えたものの、2回に6連打を浴び、5失点。その回でマウンドを降りると、監督からこう告げられた。
「もうオマエを使うことはない!」
結局、県大会ではベンチから外されてしまったのだ。
しかし、そのことが望月を本気にさせた。
「あの時は、本当に悔しかった。トレーニング中も、よく打たれたシーンがよみがえってきました。でも、それが自分を奮い立たせてくれました。きつくて、少しペースを落としたくなることもあるんですけど、そこであの時のことを思い出して、踏ん張ることができたんです」
横浜創学館・森田誠一監督の狙いは、そこにあったのだ。
「本当は使わないなんて気もちは、まったくありませんでした。彼にはエースとして頑張ってもらわなければいけないと思っていましたからね。だからこそ試練を与えたんです。ここでメンバーから外すことで、悔しい思いをさせることが、彼のためだと。そこでめげるような選手ではないこともわかっていましたしね」
森田監督の期待通り、望月にとって、その後の成長を促した転機となったことは間違いない。
望月には、もうひとつ忘れられない悔しい思い出がある。2年秋、練習試合で東海大相模の
杉崎成輝に浴びた一発だ。
「インコース、膝元へのストレートを軽々とホームランにされたんです。そしたら、試合後、杉崎に『今日、あまり調子良くなかった?』と言われたんです。確かに当時の自分は、まだ球速がなく、その時も130キロ後半のボールではありましたが、当時の自分としてはそんなに悪いボールだとは思っていなかったので、結構ショックでしたね」
しかし、これもまた、望月の成長を促した。エースとしての自覚をさらに強め、「このままではダメだ」と、前述した通り、冬場のトレーニングでフィジカルを鍛え、球速アップにつなげたのだ。
悔しさを糧にして、プラスの力へと変えていくことができるのは、望月の大きな強みと言える。森田監督も「野球に対する取り組みがしっかりしている。その部分は、秋山にも劣っていないと思います」と太鼓判を押す。
そんな森田監督は、秋山と望月との“横浜創学館対決”が実現する日を心待ちにしている。
取材・文=斎藤寿子 写真=BBM、遠藤武(インタビュー)