
会見では、さまざまな思いが駆け巡ったのだろう。目を潤ませるシーンもあった
かつて
中西太さん(西鉄ライオンズの伝説の大打者)のインタビュー記事で『何苦楚魂』と書いた際、「それは岩村の言葉じゃよ」と苦笑されたことがある。二軍時代の岩村にコーチだった中西さんが贈った、何事も苦しいことが礎になるという『何苦楚』(なにくそ)の言葉。岩村はそれに〝魂〟をつけ、自身の野球人生の指針とした。
まさに波乱万丈の野球人生だった。宇和島東高からドラフト2位で1997年
ヤクルト入団。2年間は、ほぼ二軍でくすぶり、そのときいまも恩師と慕う中西さんと出会い、プロとしての在り方と打撃を学んだ。
プロ4年目の2000年からサードのレギュラーに定着。以後、小柄ながら思い切りの良いバッティングでチームに貢献し、04年には44本塁打を放っている。三塁守備にも定評がり、ゴールデン・グラブ6回の受賞も光る。
4月10日、都内のホテルで行われた引退会見で岩村の目が光ったのは、プロとして誇りに思う試合を挙げたときだ。
2005年8月26日の横浜戦(神宮)。この日の未明、岩村の母・美千代さんが肺ガンで亡くなった。まだ、58歳の若さだった。
報告を受けた
若松勉監督(当時)は、岩村にすぐ実家に戻るよう言った。しかし岩村は「プロとして目の前の試合を放棄することはできないし、母もそんなことは望んでいないと思った」と試合に出場。3回に同点の三塁打を放つと、5回に勝ち越し2ラン、7回には2打席連続のソロ本塁打。「天国から見ていた母親が打たせてくれた」と語った。
ただ、会見では少し口ごもり「悔いでもあります。今でも、どちらが正しかったか分かりません」と続けた。最愛の母の死、すぐにでも帰るべきではなかったのか……。その思いは10年以上たった今でもある。
07年からは「無謀」と言われながらもメジャー挑戦。1年目からレイズでレギュラーに。2年目には若手の多いチームのリーダー格としてワールド・シリーズに導いた。
その後、11年に
楽天で日本球界復帰も、故障もあってふるわず2年で解雇。「空回りし、いろいろ言われ、簡単に言葉にできないくらい悔しく、苦しい時期でしたが、あのときがあったからいまの自分があると思っています」と振り返った2年間だ。
13年には古巣ヤクルトに復帰も、やはり結果を出せず、14年10月戦力外に。その後、「楽天時代に東日本大震災を経験したこともあって、東北のために何かできないか」と思い、BCリーグの福島ホープスの監督兼選手となった。
今回、即ではなく、あと1シーズンと決めての引退表明を行ったのは、少しでもたくさんのファンに球場に足を運んでもらい、若い選手たちの頑張っている姿を見てほしいという思いもあったのだろう。
「野球界の底辺拡大のためにできる限りのことをしたい」
若々しいヤンチャそうな顔は全盛期と変わらないが、その言葉は別人のように堂々と、そして責任感に満ちあふれていた。
写真=小山真司