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沢村栄治「栄光の伝説」/生誕100年記念企画その3

【沢村栄治 栄光の伝説(3)】無名だった沢村栄治を成長させた岡崎公園の特訓

 

京都商時代の沢村(右)と山口さん


 1929年、沢村栄治が明倫小高等科1年のとき、明倫小は沢村─山口千万石のバッテリーで三重県の地区大会を勝ち進み、京都岡崎グラウンドで行われた全国少年野球大会に出場した。

 沢村はそこでの活躍が注目され、翌年京都商業に山口さん、そして辰巳という同級生とともに誘われ、入学する。

 少し長くなるが、山口さんの回想を紹介する。

「沢村クンが、とにかく毎日投げ込んでいました。いつも岡崎公園でやっていたんですが、ブリキ缶にボールを詰めていって1日大体350球くらいですね。どしゃぶりでも200球以上は投げていました。

 よく沢村クンを天才と言いますよね。確かにそうですけど、加えて人一倍努力してました。ふだんからつま先立ちで歩いたり、風呂に入っているときも、ボールに木をくっつけた手製の道具でスナップを鍛えたり。体はものすごかったですよ。裸になると、全身、筋肉ですから。特に腰は幅があるし、厚みもある。ほれぼれするような体でした。

 当時のミットはいまみたいにいいものじゃないから、そのまま使うと球を弾いちゃうんですよ。だから中心部分の綿を取って薄くするんで、手が痛いのが当たり前。最初はてのひらが腫れます。それを風呂で温めたり、冷やしたりしていると、1週間くらいして痛みが引きますけど、今度は痛みが突き抜けて、手の甲が痛くなって腫れるんですよ。それが治まると、ホントのキャッチャーの手になるんです。

 ただ、沢村クンの球は速いからいつまで経っても手が痛かったですね。指も突き指ばかりしていましたが、毎日毎日投げ込みをするんで治す暇がなかったんですよ(笑)。

 よく捕れた? コントロールが良かったですからね。サインは指2本がストレート、ゲンコツがドロップでパーがカーブだったんですが、ストレートはピシピシと構えたところに来たし、ドロップも最初からミットのてのひら側を上にして構えていたら、ボールのほうから入ってくれましたからね」

 岡崎公園の特訓が、まだ無名だった沢村を確実に成長させていく。(続く)

写真=BBM
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