京都商時代の沢村(右)と山口さん
1929年、
沢村栄治が明倫小高等科1年のとき、明倫小は沢村─山口千万石のバッテリーで三重県の地区大会を勝ち進み、京都岡崎グラウンドで行われた全国少年野球大会に出場した。
沢村はそこでの活躍が注目され、翌年京都商業に山口さん、そして辰巳という同級生とともに誘われ、入学する。
少し長くなるが、山口さんの回想を紹介する。
「沢村クンが、とにかく毎日投げ込んでいました。いつも岡崎公園でやっていたんですが、ブリキ缶にボールを詰めていって1日大体350球くらいですね。どしゃぶりでも200球以上は投げていました。
よく沢村クンを天才と言いますよね。確かにそうですけど、加えて人一倍努力してました。ふだんからつま先立ちで歩いたり、風呂に入っているときも、ボールに木をくっつけた手製の道具でスナップを鍛えたり。体はものすごかったですよ。裸になると、全身、筋肉ですから。特に腰は幅があるし、厚みもある。ほれぼれするような体でした。
当時のミットはいまみたいにいいものじゃないから、そのまま使うと球を弾いちゃうんですよ。だから中心部分の綿を取って薄くするんで、手が痛いのが当たり前。最初はてのひらが腫れます。それを風呂で温めたり、冷やしたりしていると、1週間くらいして痛みが引きますけど、今度は痛みが突き抜けて、手の甲が痛くなって腫れるんですよ。それが治まると、ホントのキャッチャーの手になるんです。
ただ、沢村クンの球は速いからいつまで経っても手が痛かったですね。指も突き指ばかりしていましたが、毎日毎日投げ込みをするんで治す暇がなかったんですよ(笑)。
よく捕れた? コントロールが良かったですからね。サインは指2本がストレート、ゲンコツがドロップでパーがカーブだったんですが、ストレートはピシピシと構えたところに来たし、ドロップも最初からミットのてのひら側を上にして構えていたら、ボールのほうから入ってくれましたからね」
岡崎公園の特訓が、まだ無名だった沢村を確実に成長させていく。(続く)
写真=BBM