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横綱・稀勢の里とダブって見えた立大野球部のV

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35季ぶりに東京六大学を制覇した立大野球部


 立教大学野球部が「稀勢の里」に見えた。「最強・大関」から横綱昇進までの苦難の道程が、タテジマのユニフォームとかぶったのだ。

 立大は2014年秋、2016年春と優勝に王手をかけながら、栄光を逃している。つまり、「あと1勝」すれば良い状況まで持ち込みながら、詰めの甘さが見られたのである。

 就任4年目の立大・溝口智成監督は「もう、勝てないのでは……」と、悩んだこともある。自身は立大在学中に3年秋、4年秋(主将)にリーグ優勝を経験。社会人野球・リクルートでプレー後は、社業に専念。ただ、野球への情熱が冷めることはなく、ずっと「立教で指導したい」と思い描いていた。

 野球部OB会からの推薦、大学の承認を受け、2014年に監督就任。リクルートは退社し文字通り、「退路を絶って」母校指導に当たった。

 かつて立大にも「スポーツ推薦制度」があった。ミスタープロ野球・長嶋茂雄が在籍し、リーグ史上2校目の4連覇を飾る1950年代中盤から60年代中盤まで、野球に限らず「立教スポーツ」は黄金期にあった。

 しかし、高度経済成長期の1960年以降、大学進学率が上昇すると、「入試の公平性と平等性」が問われる時代となった。そして、1969年からの「大学紛争」が決め手。寄付、教職員子弟、聖職者子弟、交友子弟入学という特殊入試の廃止を機に、体育会推薦入学制度も全廃の動きへ推移した。前田一男野球部長は言う。「大学全体の方針として不明朗な入試をなくそうと、カジを切ったということです」。

 推薦制度は70年に撤廃され、優秀なスポーツ選手の立大入学は事実上、難しくなった。つまり、入試のハードルが極めて高くなったわけである。71年以降、体育会活性化における具体的方策が講じられない時が続く。

「キリスト教精神か分かりませんが、立教らしさと言いますか、律儀にずっと守ってきた。あらゆるところで順守しよう、と」(前田部長)

 1966年春のリーグ制覇を最後に、溝口監督が3年生だった89年秋の復活Vまで、23年間に及ぶ〝空白〟が続く。成績不振に加えて、部員不足。立大野球部史上、厳しい低迷期となった。

 1994年に「自由選抜入試」が導入。偏差値に代表される学力だけでなく、スポーツら諸活動に秀でた人材を受け入れる体制を整えた。

 ただ、書類選考、面接のほか、英語が必修であったため、ハードルの高さは変わらない。 法大、明大に加え、若干名であるが早大がスポーツ推薦で補強を進める一方で、立大と慶大(東大はもちろんだが……)は頑なに受け入れなかった。立大の入学経路は、指定校推薦、一般入試、付属と自由選抜に限られたわけだ。

 2008年に重い腰を上げる。「アスリート選抜入試」の導入だ。基本理念は「立教らしい、体育会活性化を入試制度に落とし込んでいく。それがアスリート選抜です」(前田部長)。第1次選考は書類(評定平均3.5以上、競技実績)、第2次選考は小論文と面接が行われる。第1次選考は体育会各部で原則5人。とはいえ、出願者全員が合格するとは限らない。

 他校の後塵を拝していた「甲子園経験者」の門戸が大きく開かれた。以降、安定してV争いができてきているが「実績で勝てるほど、甘くはない」と溝口監督。今年は「1人の能力に頼らず、一体感を持たないと勝てない」と、スローガンに『戮力同心(りくりょくどうしん)』を定めた。個人の失敗を、チーム全体のミスと受け止め、課題克服に取り組む。指定校推薦、一般入試、付属校らによる「一体感」により結実した成果だったのだ。

 18年のブランクを経て、13度目の優勝を果たした。稀勢の里ではないが「あと一歩」をようやく、乗り越えたのである。

「そもそもこの50年間で3回しか優勝していない。6校でやっているので、優勝争いは熾烈で簡単ではない。毎回、優勝争いに絡んでいきたいですが今回、『壁』を越えたことを前向きに作用させ、自信にしてほしい。呪縛から解かれた? そう願いたい。できるんだ!! ということを知ったと思います」(溝口監督)

 稀勢の里は2場所連続で優勝し、実力が本物であることを証明した。立教大学野球部も東京六大学で存在感を示していくためにも、6月5日に開幕する51年ぶり出場の大学選手権で、タテジマの一つの真価が問われると見ている。
文=岡本朋祐 写真=BBM

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