
独特のクラウチングフォームから打球を全方向に打ち分けた
プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月23日だ。
「俺が死んだらユニフォームを着せて葬ってほしい」
それが遺言だったという。1947年6月23日、
巨人の
黒沢俊夫外野手が腸チフスで死去した。32歳の若さだった。
黒沢は関大から36年に名古屋金鯱入り。44年から巨人入りし、終戦後プロ野球が再開された46年から背番号4を着けた。
黒沢が移籍した44年、巨人は球団存続の危機にあった。43年の在籍選手の35人のうち16人が兵役で休職。さらに戦線悪化で「もはや野球どころではない」と主力選手が次々辞表を出し、残るはわずか6人となった。ここで創設以来「他チームの選手は取らない」という巨人の不文律も破らざるを得なくなり、黒沢らを獲得した。
この非常事態の中(もっとも他球団も同様だったが……)、チームを支えたのが黒沢だった。全試合出場で打率はリーグ2位の.348をマークしている。戦後は46年も全試合出場を果たすが、47年6月「痔が悪いようだ」と病院に行くと、腸チフスと分かり、入院。1週間後の23日に死去した。食糧難の時代、栄養不足や疲労が病気につながり、さらに進行を早めたことは間違いない。
その後、
千葉茂ら多くの選手の申し出もあり、黒沢の背番号4は戦死した伝説の大エース・
沢村栄治とともに永久欠番に。これが日本球界における永久欠番の始まりでもある。
写真=BBM