
ひたすら投げまくった権藤(右。左は国鉄の新人で途中から四番も打った徳武定之)
プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は7月1日だ。
1961年6月末、梅雨の季節に各地で記録的な集中豪雨があった。
中日ドラゴンズのゲームも中止が相次ぎ、6月24日の大洋戦(川崎球場)の後、7月1日の同じく大洋戦(中日球場。のちナゴヤ球場)まで6日が空いた。
この“休暇”を誰より喜んだのが、中日の
濃人貴実監督と新人投手・
権藤博だったはずだ。
権藤はここまでの53試合のうち29試合に登板し、14勝7敗。しかも6月18日完投負け、21日完封勝利、24日延長11回1失点完投勝利と権藤への依存度がどんどん高くなっていた。明らかに疲れが見えていただけに、まさに恵みの雨だったと思う。一方で濃人監督は、「また、権藤をどんどん使える」と、やや恐ろしい意味でニンマリしていたはずだ。
7月1日は、8日ぶりにプロ野球全6試合が予定どおりに開催。権藤は大洋戦でやっぱり先発し、完封勝利。中6日での登板はシーズン開幕から最長でもあった。その後も梅雨前線は活発で4日から15日まで雨で中止が相次ぎ4試合しかなかったのだが、権藤はそのすべての試合に2勝2敗。流行語ともなった“権藤、権藤、雨、権藤”が生まれるきっかけともなった。
最終的には同年69試合に投げ、35勝19敗、防御率1.70。投球回数はなんと429回3分の1だった。権藤は翌年も30勝を挙げたが、その後、故障で低迷。結果的に短命に終わり、引退後、コーチ、監督として投手分業制を推進することになる。
写真=BBM