最速149キロ右腕として、埼玉県下に名を轟かせた増渕
目前で“2つの夢”が途絶えた。強豪・私学を破って甲子園へ――。強い思いを胸に、埼玉県の公立・鷲宮に入学したからこそ、あと1勝に迫った悲願を達成に敗れた無念は、今なお胸に残っている。
「高校3年間での思い出は、やっぱり3年夏の決勝です(2006年)。浦和学院(以下・浦学)に0対4で敗れた試合が、忘れられない一戦です。あと一歩で甲子園という悔しさもある半面、『まだ自分は力がない』と思わせてくれた試合なんですよね。良い思い出でもあり、悪い思い出でもある。今も心に刻まれている一戦です。
僕自身が『打倒私学』を掲げていたというのもあり“浦学”に負けたというのも悔しさを倍増させました。その『打倒私学』の思いは小さいときから。甲子園に出場する『埼玉代表』は『埼玉県の選手のチーム』であるべきだと思っていたんです。私学は県外の選手もいる。自分自身が私学に行けるような実力がないというのもあり、強豪私学を破って県内の選手だけで甲子園へ――と。高校時代は、その一心でプレーしていました。(草加栄)中学時代に関東大会に出ましたが、それは僕が1年のときのこと。3年では県8強どまりで、自分には力がない。高校で成長して強い学校を倒したいと思っていたんです。
そこで進学先に選んだのが鷲宮でした。チームの雰囲気が良く活気にあふれている練習に惹かれたんですよね。
打倒私学に燃えた高校生活でしたが、実際に私学と戦って強さも痛感しました。中でも3年夏に決勝で対戦した浦学ですね。打者の向かってくる姿勢、その迫力は、すさまじいものがありました。あれは自信があるからこそ。『俺たちは、これだけ練習してきたんだ』という思いが、打席からヒシヒシと伝わってきたんです。
浦学だけではありません。良きライバルだったのが埼玉栄の
木村文紀(現
西武)。2年の秋に彼と投げ合い、0対1でサヨナラ負け。春は対戦せずにウチ(鷲宮)が県大会で優勝して関東大会へ。互いに存在を意識していたんです。
夏の大会の抽選会で「決勝で投げ合おう」と約束したんですよ。大会中は埼玉栄の結果を気にして。結局、対戦する前に埼玉栄は負けてしまったのですが、木村と投げ合うまでは負けられない、という思いは強かったです。
春日部共栄も総合力では図抜けていました。エースは1学年下の難波剛太(現東京ガス)で、投手はほかにも
大竹秀義(現
巨人育成)がいて。野手では
斉藤彰吾(現西武)と、相当、警戒していたチームだったんです。本当に埼玉は強豪私学が多く、どこと当たっても気が抜けなかったですね。
その私学を倒して甲子園へ。あと1勝に迫った決勝は正直、本調子ではなかったんです。球速も140キロそこそこで、本塁打を浴びて。監督もチームメートも、『いつもと調子が違うぞ』と思っていたらしいんです。
だから、悔しさは残り続けました。浦学が甲子園に出て、試合をテレビで見ていたんですが、対戦校である金沢(石川)を応援していましたから。
浦学が憎いと言うわけではないんです。最後まで敵でいたかった。それに金沢とは練習試合をしていて、チームワークがあって良い野球をしていたので、『自分たちの分まで浦学に勝ってほしい』と応援していたんですよ。
果たせなかった私学を破っての甲子園。できるなら、もう一度、高校野球をやり直したい思いは今も強いです。だからこそ、最後の夏を迎える高校3年生たちは、全力で悔いのないプレーをしてほしい。一生で一度の夏です。3年間を一緒に過ごした仲間をともに、勝利を目指す夏は、一生の宝物になるのは間違いありません」
写真=BBM ※現在「上尾ベースボールアカデミー」の塾長として子どもたちの指導にあたっている
増渕竜義。野球への情熱は、今も消えてはいない。
■上尾ベースボールアカデミー
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Fecebook:「go every baseball」
※『週刊ベースボール2017年8月6日号増刊 第99回全国高校野球 埼玉大会展望号』より再編集