
創設期のタイガースのチームリーダー的存在でもあった松木謙治郎。俊足の左打者だった
1936年9月18日から第2回日本選手権大会の第一次甲子園リーグ戦が始まった。のち、ここからの記録がプロ野球の公式記録と決まったターニングポイントだ。トーナメント、リーグ戦が6大会行われる形式でそれぞれ1位が勝ち点1、1位が2チームの場合、勝ち点0.5ずつ。その合計で総合王者を決めようというシステムだった。
沢村栄治は、
巨人の全27試合中15試合に投げ、13勝2敗、防御率1.05と圧巻の成績を残す。ただ、最多勝は手にしたものの、最優秀防御率はタイガースの投手兼外野手の
景浦将が0.79で手にしている。猛打で鳴らした二刀流選手で、当時、そのような形容はなかったが、元祖ミスター・タイガースと言うべき豪傑だ。
のち宿命のライバルとも言われる巨人とタイガースが火花を散らすような激しい戦いを見せる中、9月25日の対タイガース戦で沢村が4四球、3エラーの走者を出しつつ、プロ野球史上初のノーヒットノーランをマークしている。このときタイガース打線の二番打者だった松木謙治郎は後年、当時の沢村について、こう語っている。
「ベルトより下の直球がピュッ、ピュッ、ピュッと節をつけて三段階くらい伸びてくる。ベルトあたりにストライクが来たと思ってバットを出すと、加速度をつけて伸びてくるからボールの下を振ってしまう。直球に節がついて伸びてくる球は、いまお目にかかろうったってありませんよ」
節がついて伸びる球……。打者の目には、段階的に伸びていくように見えるということだろうか。
最終的には巨人とタイガースが勝ち点2.5で並び、初代王者の座は、年度優勝決定戦に持ち越された。いわゆる洲崎決戦である。
<次回に続く>
写真=BBM