
甲子園の電光掲示に表示された161キロ
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は7月19日だ。
いま陸上の100メートルで9秒台が大きな壁として日本人選手に立ちはだかっているが、かつての日本球界でいえば、それは投手の球速160キロ台になるだろう。
1993年、
ロッテの剛腕・
伊良部秀輝が
西武・
清原和博の打席で投じた158キロが長く最速として残り、何人かの選手が並んだが、なかなか更新できずにいた。それを抜き、一気に160キロ台に乗せたのが、2005年横浜(現
DeNA)の
クルーンだ。
7月19日の
阪神戦(甲子園)だった。新外国人のクルーンは当初は中継ぎスタート。31歳という年齢とメジャーでの26試合で0勝2敗という成績もあって、正直、大きな期待をされたわけではなかったが、現役時代、理論派投手として鳴らした
牛島和彦監督(現役は
中日─ロッテ)の指導でフォームを修正。課題であった制球難を克服したことで“化けた”。メジャーから日本復帰も調子が上がらなかった大魔神・
佐々木主浩が故障で離脱すると、代わりに抑えを務め、セーブを積み上げていく。
この日は1対1の同点で迎えた12回裏にマウンドに立つと、
赤星憲広の打席で投じた6球目に161キロをマーク。ただし、伊良部の158キロ同様、赤星にファウルにされ、打球はスタンドに。
「ファンのために記録を出したい気持ちがあった」というクルーンは、その後も160キロ台を連発。
巨人に移籍し、最多セーブとなった08年には162キロもマークした。ただ、クルーンの三振パターンは、勝負球のほとんどがフォークで快速球もファウルにされることが多かった。
クルーン自身も自覚していたようで、先日始球式で来日した際、取材をさせてもらい、『週刊ベースボール7月24日号』に掲載されたインタビュー記事中でも「私のストレートは日本のほうが通用しなかった。たくさんファウルを打たれるし、空振りが取れずに球数が増える。私はそれが嫌だったからフォークを多投したんだ」と振り返っている。
写真=早浪章弘