7月20日、
広島は育成選手の
アレハンドロ・メヒアと支配下契約を結んだ。一足先に支配下に昇格した
バティスタはすでに7本のアーチをかっ飛ばしている。ともにドミニカ共和国のカープアカデミー出身。育成に定評のある広島は、外国人も“純粋培養”を果たしている。
西武にもその昔、日本で技術を磨き、飛躍を果たした外国人選手がいた。それがバークレオだ。
1987年シーズン途中にエンゼルス傘下から西武へ。当時、外国人枠は2だったので、“第三の外国人”扱い。二軍で鍛錬を積んだが、193センチ95キロの巨体を生かしたパワーに魅力はあっても、安定性を欠いていた。秋季キャンプで打撃投手の緩いカーブを空振りばかりして、
清原和博があ然としたほどだった。
しかし翌88年、ブコビッチが退団したことにより、一軍へ。開幕当初は代打屋稼業、「五番・DH」で使われ始めても、左投手が出てくるとお役御免だったが、少ない出場機会でアーチを量産して首脳陣の信頼をつかんだ。
極端なクラウチングをやめ、体を少しだけ起こして構えたことで、ボールの見極めができるようになったことが成功の秘密。“マイウェー”を貫くメジャー上がりの助っ人とは違い、ハングリー精神旺盛な若者だっただけに聞く耳を持っていることが奏功した。
結局、この年、打率.268、38本塁打、90打点をマークして優勝に貢献。三番・
秋山幸二、四番・清原和博とクリーンアップを組み、頭文字をとって“AKB”砲と呼ばれたわけだ。
「札束攻勢で作り上げた外国人ブームは去った。バークレオは球界に革命を起こす」と鼻息荒かった西武フロント。だが翌89年、バークレオは弱点を突かれ、極度の不振に陥り、一軍の座を途中加入した
デストラーデに奪われてしまった。デストラーデはこの年、32本塁打。90年からは3年連続本塁打王に輝いた。
89年は37試合、90年は41試合の出場に終わったバークレオは91年に広島へ移籍。“AKB”砲はわずか1年で解散し、“AKD”砲が球史に残ることになったのである。
写真=BBM