実働22年で350勝をマークした米田
中日の
岩瀬仁紀がまた一つ、大記録へ近付いている。42歳のベテラン左腕は今季、7月24日現在、41試合に登板。通算では945試合登板を数え、
米田哲也(阪急ほか)の持つ史上最多949試合登板に残り4と迫っている。
米田は故障知らずの体と驚異のスタミナで“ガソリンタンク”の異名を取った右腕だ。試合終盤になってもまったく球威は落ちず、通算350勝は
金田正一(国鉄ほか)の400勝に及ばないが、19年連続2ケタ勝利はこの男だけの勲章である。
境高時代、初めて見たプロ野球は米子球場でやっていた
阪神-国鉄戦だったが、阪神・
渡辺省三、国鉄の金田の投げ合いを見て、米田は「これならいける」と思ったという。
「渡辺さんは球が遅いし、金田さんは速いけどコントロールが悪かった。僕は高校からカーブ、シュート、スライダーとなんでも投げた。社会人ともよく練習試合をしたけど、打たれた記憶はないですよ」
評判を聞き、阪急、阪神、毎日、
広島のスカウトが来たが、一番熱心だったのが阪急だ。米田自身も阪急入りを決めていたが、いつの間にか家族が阪神と契約してしまう。
「1週間、実際、阪神のユニフォームを着て練習しました。二重契約と騒がれ、最後はコミッショナー事務局に、どっちに行きたいかと聞かれ、阪急を選んだ。給料は安かったけど、背番号18番をもらえるならやってみようと思いました」
1年目から51試合に投げ、9勝15敗。
「勝っていても4回3分の2くらいで代えられた試合も多かったし、防御率は2点台(2.38)。プロの壁は感じなかった。昔は簡単に勝ちをくれなかったから。確かに、もう1勝で20年連続2ケタ勝利だから少し残念ですね」
バッティングもよく、プロ4打席目で満塁本塁打。入団直後には打者転向の話もあったというが、「興味はあったけど、まずは投手でやってからにしてください」と断った。
2年目、藤本定義監督が就任。
「藤本さんは試合前に、『おいヨネ、今日は何点や』と聞いてきて、『2点ですね』と答えたら、2点取られるまで絶対何も言わん。取られても『あと何点や』とまた聞いてきて、僕が『取られてもあと1点ですね』と言ったら『よっしゃ』でまた何も言わん。そういう育てられ方をすると、責任感が出てくるんですよ。よく『どうしてあんなにタフだったんですか』って聞かれるけど、この責任感というのも大事だったと思う」
この57年が21勝。3年目は23勝を挙げ、うちパ・リーグ記録11完封もあった。ただ、「自信というより打線があまりに打てんから0点に抑えるしかなかったんですよ」と笑う。先輩左腕の
梶本隆夫と「ヨネカジ」と呼ばれ出したのもこのころだ。阪急は59年以降、成績が低迷し、“灰色のチーム”とも言われたが、2人はその中で奮闘。打線の援護の少ない中で必死にチームを支えた。
絶大な効果を誇り、ヨネボールとも言われたフォークを投げ始めたのは10年目くらいだ。これで投球の幅が一気に広がった。
「絶対にワンバウンドなんてしない。フルカウントからでも自信を持って投げられる球でした」
当時の投球のフィルムをコンピュータ解析すると速球のスピードも156キロあった。
67年に
西本幸雄監督の下で、初優勝を経験。68年には29勝でMVPに輝いたが、米田は「大したことあらへん」と言い切る。
「サイちゃん(西鉄・
稲尾和久)は42勝だからね。昔なら、やっぱり30勝にいかんと」
75年、
上田利治監督の若手への切り替えの方針もあって登板が減り、2勝を挙げたところで二軍降格を命じられた。このとき米田は移籍を志願して阪神へ。77年には近鉄移籍、節目として考えていた350勝を達成したこともあり、引退を決意した。
「股関節が硬くなって、腰が高くなったのと痛風です。まあ、やるだけやったと言えるんじゃないですか」
もちろん、その言葉を否定できる人は誰もいない。
写真=BBM