怒り狂う藤村(中央)。こうなるともう誰も止められない……
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は7月25日だ。
先日、1953年7月23日に起こった大騒動、「第一次難波事件」を紹介したが、今回は翌54年7月25日、同じく大阪球場で起こった「第二次難波事件」とも言われる騒動だ。
大阪球場(通称難波球場)で行われた
阪神─
中日のナイトゲームが事件の舞台。阪神・
駒田桂二、中日・
杉下茂の投げ合いとなり、9回を終え、2対2で延長戦に突入した。
10回表、中日が3点を奪い、阪神が2対5とリードされて迎えた10回裏だった。阪神の代打・
真田重男がカウント2−2からスイングするとファウルチップに。これを中日の捕手・
河合保彦が体をかぶせるようにしてキャッチした。ワンバウンドせず捕っていれば三振だが、一度、こぼして拾ったようにも見えた。
真後ろの杉村正一郎球審からは死角に入っていたので、一塁、三塁の塁審に確認するが、ともにクビをひねるだけ。杉村球審は少し考えてから「三振」の
コールをした。これが21時19分だ。
すぐに怒ってやってきたのが、一塁のコーチスボックスにいた阪神・
松木謙治郎監督とベンチにいた阪神の選手兼任助監督・
藤村富美男、主将の
金田正泰だった。一番カッカしていたのが、“猛人”とも言われた藤村。素顔はおとなしい常識人なのだが、ひとたびユニフォームを着ると人が変わったかのように荒々しくなる男だった。
わめきながら藤村が杉村球審を2回、3回と小突くと、杉村は阪神ベンチを指さし、藤村に何かを告げた。続いて松木監督が杉村球審を腰投げ。当時、藤村は連続試合出場記録を1014試合まで伸ばしており、松木監督は「記録をストップしたくない。自分が退場になって藤村を守ろう」と思って“キレたふりの”投げだったと明かしている。
22時56分、阪神側は連盟への提訴を条件に松木監督が退場し、三振として試合再開。藤村は涼しい顔でベンチから立ち去らず、さらに二死一、三塁となってから打席に入ろうとした。
血相を変えたのが、杉村球審だ。「お前には退場を命じてある!」と言うが、藤村は「聞いとらん!」とまたもめる。数百人の観客がグラウンドに降り、結局、警官約200人、さらに機動隊も動員される騒ぎとなった。
23時、中日側から「これでは試合続行は無理」との申し出もあり、阪神の放棄試合、0対9での敗戦が決まった。後日、藤村には罰金5万円と20日間の試合出場停止処分が下され、藤村の記録もストップ。なお、藤村はのちの取材で「球審は、『お前は風呂にでも入っておれ』と言っただけ。退場なんて言われてない。あれじゃ、分からん」と振り返っていた。
写真=BBM