1990年、広島が選手育成のためにドミニカ共和国に開校したカープアカデミー。後にメジャーで活躍したソリアーノら多くの選手を輩出した。今年、育成から支配下に昇格したバティスタ、メヒアも同アカデミーの出身で、再び注目を集めている。連載「カープアカデミー物語」で、その歴史をたどる――。 カープアカデミー、記念すべき第1号選手

試合用の第1グラウンド。ここは内外野天然芝だが、日本に合わせて内野が土のグラウンドもあった
1990年秋のアカデミー開校後、秋季、春季キャンプと定期的にドミニカ共和国から選手、コーチが研修のため来日した。球団としては早めに契約第1号を発表したいと思っていたようだが、身体能力は抜群ながら、プレー全体が粗く、日本野球にアジャストできるかが危惧され、なかなか当時の
山本浩二監督のGOサインが出なかった。
ついに第1号が生まれたのは、92年春季キャンプ。投手の
ロビンソン・チェコ(20歳)だった。140キロ台後半の速球を軸にシート打撃や紅白戦で好投し、アピール。キャンプ中盤には、山本浩監督も「楽しみな投手であることは間違いない」と評価するようになった。
2月24日、チェコと正式契約し、支配下登録選手に。ドミニカアカデミーの記念すべき第1号選手だ。背番号は106、年俸は推定ながら最低保証額の400万円。当時としても“超格安物件”だった。
チェコは9人兄弟の6番目で、15歳で野球を始めた。当初はメジャー・リーグのエンゼルスのアカデミー入りしたが、2年でクビとなり、90年、カープアカデミーのテストを受けた。当時、ドミニカ共和国内には26のアカデミーがあったが、すべて米球界のもの。日本球界行きを目的とするのは、カープアカデミーだけだった。
チェコは、のちのインタビューで「日本の野球への知識はまったくなかったけど、カープのユニフォームはドミニカの英雄のホゼ・リーホがいるレッズに似ていて好きだった。胸の『C』がカープ(鯉)というのは後で知ったんだけど、僕は魚に詳しく、鯉は釣るとすぐ死んじゃうイメージがあったんで、何でニックネームにしたんだろうと思ったよ(笑)」と、アカデミー入り当時の思い出を語っている。
アカデミーの当時の監督はドミニカ人のヘロニモ。日本からは日本人コーチを派遣するとともに、育成部の
田中尊氏、元監督に
阿南準郎氏らが定期的に現地を訪れ、広島式の練習を指導。さらに日本人の考え方や日本野球の特徴をレクチャー。田中尊氏は「ウチの三軍という位置づけです」と話していた。
契約を告げられた際、チェコは「とにかくおカネを稼ぎたい。日本に来て、カープの選手と一緒にプレーしたい。家族のために家を建てたいんだ」と目を輝かせた。実は、このキャンプの間に首の寝違えや足首のねん挫もあったが、練習を休むことなく、必死のアピールを続けた。日本人選手にはなくなりかけていたハングリーさが、当時のアカデミー選手には確かにあった。
<次回へ続く>
写真=BBM