2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語──。 野球すんやでぇと、昭和的茶の間の原風景

メジャーでは通算10年で51勝をマークした大家(写真=Getty Images)
大リーグで51勝した男が、なぜ36歳で本格派ナックルボーラーに転身したかという謎は、もともと病弱だった男の子がどうしてプロ野球選手を目指すようになり、ほんとうにその夢を叶え、果ては京都の小さな町からメジャー・リーガーが誕生してしまったという突然変異の理由と近いものがあるように思う。
“ナックルボールは人を選ぶ”、つまりナックルボールに認められた者にしか投げることができないと言われるけれど、大家友和のルーツを辿ってみると、そうしたいわくつきの魔球に彼が最後の最後に手招きされたことがそれほど不自然に思えないのだ。
大家友和は1976年、京都市右京区梅津に、大家家の次男坊として生まれた。兄は7つ年上で、その後5つ離れた弟が生まれている。
母方の祖母・浪子は大の野球好きで、夏の甲子園大会の中継を見ながらヒザの上に抱いた赤ん坊の友和にいつも語りかけていたそうである。
「ともかずー、野球してやあ。なあ、頼むで、野球すんやでぇ」
ある夏の日、祖母は友和を行水させようとしてたらいに湯を張った。母が湯上りのタオルを取りに行った隙に、普段は滅多に泣かない友和が突然、泣き出した。慌てて風呂場に戻ってみると浪子がたらいのすぐ横で倒れていた。不思議なことに、まだつかまり立ちもできないはずの赤ん坊の友和がたらいの中ですっと立っているではないか。
浪子が息を引き取ってしばらくしてから、母は息子の左ワキ腹に大きな痣があることに気づく。そしてそれが浪子の腕の痕だと思い当たった。意識を失う直前、孫が溺れてしまわぬように赤ん坊のからだに右腕を回して引き寄せ、たらいの中に立たせたのである。
本気で『ドカベン』の“山田太郎”になりたかった
乳児のころに腸重積を患い、何年も病院通いをしなければならず、それまでスポーツと無縁だった友和が、ある日突然、ボク、野球がしたいと言い出した。白球を握りしめ、家にあったバットをブルンブルンと振り回し始めたのである。自宅近くの桂川の河川敷で暗くなるまで野球遊びに夢中になった。
母はできたら友和に野球をさせてやりたいと思った。からだが弱くて手のかかった息子が健康になればうれしかったし、夫が家を出てから突然母子家庭になり、きっと子どもたちには寂しい思いをさせているに違いない、その寂しさを少しでも紛らわせてやりたいという願いもあった。
近くの少年野球チームに入ったころ、大家友和は本気で『ドカベン』の“山田太郎”になりたかった。はじめはキャッチャーを志願したのだが、捕球の時に怖くて目をつむってしまうので、監督さんに「おまえ、キャッチャーはあかんわ」と言われて外野にコンバートされた。
ある日、センターからの送球で走者をホームで刺したことがあった。か細いからだから放たれた球は子どもばなれした力強さで、肩の良さを買われた友和は小学5年生の時、ピッチャーになった。
たった一度のオトンとのキャッチボール

少年野球で初めはキャッチャーを志願したという(写真=BBM)
“山田太郎”を志したころ、すでに友和は人生の目標を掲げている。プロ野球選手になって、オカンを少しでも楽にしてあげたい、家族をボクが支えるんだという誓いだった。
7つ上の兄は、小さいころ泣き虫だった友和をいつもかばって悪者をこらしめ、人にやさしくせえよと弟たちを見守り、自分の青春を削って友和が私学の高校へ行く進路を経済的に応援してくれた。両親が離婚してからも兄は父を突き放さず、だからオトンは家族の心の中でいつだって大家家の一員であり続けたのかもしれない。
小学生のころ、一度だけオトンが友和にキャッチボールをするぞと言って河川敷に出かけたことがあった。もともと家を出るまでは子煩悩で、友和に絵日記を書かせるために仕事を早じまいして景色のいい場所へ連れて行ったり、子どもたちにいやというほど花火させてやりたいんやと言って、若い者にダンボール一箱分の花火を買いに行かせたこともあった。気っ風がよくて男気のある人だった。
大家友和の記憶に残っているたった一度のオトンとのキャッチボールはあっけなく終わってしまう。
「もうやめや」とオトンは言った。
大人になってから、なぜあの時オトンは早々と切り上げようとしたのかを友和は考える。
「その時は、すぐ終わってしまったことを不思議には感じなかったです。でも、オヤジはもしかしたら怖かったのかもしれない。たとえ小学生の投げる球と言ったって、オヤジにとってみたらとてつもなく怖かったんだと思う」
ナックルで、一球入魂の凄みが増す。
そんなオトンが突然亡くなったのは、今から10年ほど前、大リーグで活躍していた時期のオフシーズンだった。翌春、春季キャンプに出発する時、大家は小さな赤い切手箱にオトンの遺灰を詰めてオトンを初めてアメリカへ一緒に連れて行った。
コンベンショナル・ピッチャーだったころから、彼の投げる球にはそんな京都の家族が投影されていたように思う。それが5年前にナックルボールを投げ込むようになってから、一球入魂の凄みはさらに増し、自分以外の人々の思いや夢を背負って投げ込むことをいとわなくなったようにも映る。あるいはまた、そうした彼を支える人々の力が乗っかることによって、ナックルボールは怯むことなくますます進化していったのかもしれない。
ナックルボールを投げるようになってから、時々彼は言っていた。
「丹波も長谷川さんも、ボクの何を見て、まだいけると思ったんでしょうかねえ」
丹波は、京都成章高校の後輩であり、ナックルボーラーの女房役を務めた人。長谷川は、昨秋アリゾナで大リーグのトライアウトのチャンスをつかみ、ボルティモア・オリオールズとの契約にこぎつけて、最後の挑戦の舞台を大家に差し出した彼のエージェントである。
「なかなかやめさせてくれないんですよお」
と言いながら、二人の言葉に背中を押され、もうこんな苦しみからいつだって抜け出してやると半ば思い、それでもナックルを諦めることを心身の限界まで先送りしながら大家はこの5年、魔球を磨き続けた。
フロリダで投げ込まれたナックルボールは、精魂尽き果てる前に放たれた、いのちの投球であった。
文=山森恵子