2017年は元巨人の沢村栄治が生誕100周年の記念すべき年だ。大リーグ選抜相手に8回1失点と好投した偉業は、今なお伝説として残る。戦火に散った大投手の野球人生とは――。 
38年春に入団した千葉は、すぐセカンドのレギュラーに。後年、同期の川上哲治と並び称されるスーパースターとなる
1937年春のシーズンを終え(当時は春秋の2季制)、巨人のエース、沢村栄治はこのシーズンからスタートした最高殊勲選手に選ばれた。選考委員会は、まず打率.338で首位打者のタイガース・
松木謙治郎、東京セネタースのセカンド守備の名手・
苅田久徳の3人を推薦した後、検討を行い、最終的には、満場一致で沢村が選ばれた。
東京セネタースと帯同しての新潟遠征、単独での北海道遠征をはさみ、8月29日から秋季リーグが開幕。しかし、沢村は、その初戦でタイガース打線につかまり、5対10で敗戦。打撃投手を「三歩前」から投げさせるタイガースの執念の特訓の成果もあったが、沢村自身の調子も今一つだった。蓄積していた疲労に加え、仲間たちが次々と応召していたこともあり、「次は自分……」という兵役への恐怖もあったようだ。
特に大きなショックを受けたのが、アメリカ遠征でもバッテリーを組んでいた捕手・
中山武の負傷である。応召していた中山は、中国の上海付近で銃撃を受け、左足のかかとを吹き飛ばされる重傷を負った。
互いに気が強く、マウンドでよく口論をしていたという沢村─中山のバッテリーには、35年の第一次アメリカ遠征でこんなエピソードがある。
地元のコーヒー会社のチームと巨人の対戦で、沢村の球があまりに速く、ドロップがあまりに曲がるので、ある打者に「ボールに細工があるんだろう。見せろ!」といちゃもんをつけられた。
気が強い中山は、以後1球ごとに、その打者の鼻面にボールを突きつけ、「よく見ろ!」と日本語ですごんだという。最後は、ストレートで三振。打者のスイングは、ど真ん中を想定した軌道ながら、すさまじい伸びを見せた1球を中山が捕球したのは、打者の肩の高さだった。中山は生前、「あのころの沢村の球が一番速かった」とも言っている。
今回は沢村からは多少脱線するが、中山の逸話を紹介したい。
かつて『週べ』に38年春入団で猛牛とも言われた巨人の名選手・
千葉茂氏の「サムライジャパン」というコラム連載があった。それによれば、38年秋に復帰した中山は、「カカトの部分がスリッパのようになった特製スパイクをはいていた」とある。ほとんど走れず、秋の出場は守備固めの1試合のみで、打席には立っていない。
翌39年、中山最後の試合は、巨人史に残る寂しいシーンとなった。9回裏、代打として登場した中山だったが、三遊間を抜く打球を打ちながら、10メートルほど行ったところで立ち往生。足が痛んで動けなくなったのだ。ボールはレフトからショート、ファーストに回り、アウトに。
千葉の原稿を引用する。
このときの中山の表情をいまでもワシははっきり覚えている。“無念”という言葉は、中山のためにあるのではなかろうか、とワシは思った。
中山は、同年限りで退団。戦後はアマチュア球界の指導者となり、75年死去した。
<次回へ続く>
写真=BBM