連日、熱戦が続く夏の甲子園。『週刊ベースボール』では戦後の夏の甲子園大会に限定し、歴代の名勝負を1日1試合ずつ紹介していきたい。 やられっぱなしでは気が済まない

延長10回裏、サヨナラのホームを踏んだ金村
<1981年8月18日>
第62回大会=3回戦 報徳学園(兵庫)5-4 早実(東東京) 1980年、1年生夏に“大ちゃんフィーバー”を巻き起こした早実・
荒木大輔(のち
ヤクルトほか)。一回り大きくなって挑んだ3季目の甲子園、2年夏が1981年だった。1回戦高知戦は4対0の完封、2回戦鳥取西戦は継投ながら5対0の勝利と順調に勝ち上がり、迎えた3回戦の相手が報徳学園(兵庫)だ。
報徳学園は、エースで四番の3年生・
金村義明(のち近鉄ほか)が攻守の中心。ただ、3年春のセンバツに出場した際、1回戦で
槙原寛己(のち
巨人)がいた大府(愛知)に敗退。金村は槙原のピッチングを見て、「俺は投手では一番になれん」と、投手の自分に“見切り”をつけたという。
さらに大会後は叩かれまくった。
「監督からは、お前の一人相撲で負けたと言われ、OBからはお前のせいで負けた。報徳の恥と言われ、むちゃくちゃ悔しかったですよ」(金村)
今度こそと気合を入れた夏は1回戦で盛岡工(岩手)を9対0、2回戦では、前年優勝の横浜(神奈川)を金村の2打席連続弾もあって4対1で破り(いずれも金村は完投)、勢いに乗っていた。
試合は荒木、金村の投手戦となり、0対0で進むが、早実が7回表に3点、8回表にはスクイズで1点を挙げ、4対0とリード。報徳学園も8回裏に1点を返したが、1対4で9回裏を迎えたとき、金村は「これは完全に負けだな」と思ったという。
ただ、やられっぱなしでは気がすまない。先頭打者となる金村は「(攻守交代時)荒木にボールを渡すとき、『勝負や、勝負だぞ』と言いました」という。
金村の当たりは、セカンドへのゴロ。際どいタイミングだったが、セーフで一塁へ残った。そこから死球で一、二塁の後、タイムリー二塁打が出て1点。さらに一死後、不振に苦しんでいた代打の浜中祥道が三塁線を抜き、これも二塁打で2人がかえり、土壇場で同点となった。
試合は延長戦となり、10回裏、二死から今度は金村が二塁打で出塁すると、続く西原清昭の二塁打で一気にホームにかえってサヨナラ勝ちだ。
「逆転の報徳。ユニフォームの力、伝統の力を感じました。みんなで一緒に厳しく、つらい練習を耐え抜きましたから。それでもやめずに残った連中です」と金村はのちのインタビューで胸を張った。
報徳学園は準々決勝で今治西(愛媛)、準決勝では左腕エース・
工藤公康(のち
西武ほか)を擁する名古屋電気(愛知)に勝ち、決勝は京都商に2対0。地方大会から金村は全試合を投げ切ったが、センバツで投手を見切ったことで、勝つためと変化球主体で投げていたという。ただ、決勝の9回二死、最後の打者への3球は「投手としての意地」(金村)で、ストレート勝負の三振を奪っている。
優勝が決まった際、マウンドでの金村の大ジャンプも話題となった。当時の「週べ」の甲子園決算号を読むと、この大会中に甲子園連続100試合目のスコアカードを記入したというベテラン記者で、今年野球殿堂入りした故・鈴木美嶺氏が、スコアカードに「金村君いままでで一番高くジャンプ」と赤字で書き込んだとあった。
写真=BBM