
石井一はレフトを守っていたホージーに担ぎ上げられ、かなり手荒な祝福を受けた
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月2日だ。
1998年に38年ぶりの優勝、日本一を飾った横浜ベイスターズだが、それは“突然変異”の優勝ではなかった。前年の97年も快進撃を見せ、2位。しかも7月13勝5敗、8月20勝6敗の驚異的な追い上げで、首位・
ヤクルトと最大14ゲーム差を一時は2.5ゲームまで縮め、そのまま奇跡の逆転優勝かとも思われた。
そこに立ちはだかったのが、ヤクルトの23歳の快速球左腕・
石井一久である。
1997年9月2日、ヤクルトは横浜と3.5ゲーム差で敵地・横浜での3連戦を迎え、先発マウンドに石井を送った。
立ち上がり、一番・
石井琢朗にいきなり四球を与えたが、ストレートが走り、しかも指にしっかりかかっている実感があった。2回が終わった際には、ベンチに戻ると、近くにいた
伊藤智仁に「もしかしたらできるかもしれない。狙ってみたいんです」と言った。ノーヒットノーランである。
4回まではノーヒットも4四球とやや制球にばらつきがあったが、5回以降は完ぺきに横浜強打線を抑え込む。ただ、8回を終わったとき、石井は突然、
野村克也監督に降板を申し出たという。そこまで107球、前年の12月に左肩の手術をしたため1試合100球をメドにしていたからだ。要は2回終了時には、100球で記録達成の自信があったということだろうか……。
しかし、野村監督は、一瞬あ然とした表情を浮かべた後、「アホ、メッタにできることやないだろ。やれるときにやっとけ」。石井は、そのまま9回のマウンドに上がると3人でピシャリ。最後、121球目は、この日最速の151キロを掲示。記録達成後、ナインに囲まれ、胴上げされた。
さすがの野村監督も「負けられない展開の中で、こんなことが起こるとはな」とぼやきなしの称賛を送った。
ヤクルトは翌日も横浜に勝ってマジック21を点灯。そのまま優勝まで走った。まさにペナトレースの行方を決した大記録と言えるだろう。
写真=BBM