今年は10月26日に行われるドラフト会議。毎年、金の卵たちが、どの球団へ進むか大きな注目を集める“一大イベント”で、さまざまなドラマも生まれる。今年で53年目を迎えるドラフト会議の歴史を週刊ベースボールONLINEでは振り返っていく。 西鉄球団社長からの提案

アイデアマンとしても知られた西社長(左)
かつて新人選手の入団は、すべて個人と球団との間で交渉が行われていた。選手たちは当然、ほかより条件が良かった球団や、好きな球団を選ぶことになる。これ自体は職業選択の自由だ。別に間違ったことではない。
このころのスカウトは「人買い」のように揶揄されることもあった。実際、選手の資質を見極めるだけで仕事が終わるわけではなく、契約交渉の責任者でもあった。鞄に現金を詰め、複数球団と争奪戦になれば、それを見せつつ、他球団との丁々発止のだまし合い、駆け引きがある。さらに言えば、しばしば選手側からも契約金つり上げのために仕掛けられた。まるで映画のような逸話も数限りなくあり、1955年秋に南海に入団した中大の
穴吹義雄をめぐる大争奪戦は、『あなた買います』のタイトルで小説、さらに映画にもなっている。
60年前後からさらに顕著になった有力選手の契約金高騰は、球団の懐具合によって戦力格差が広がることにもつながった。特に影響を受けたのは、不人気のパ・リーグだ。テレビの普及によって地上波中継がある
巨人に人気が集中。巨人戦があるセ・リーグ球団はまだしも、それがないパは、どこも集客に苦しむ。客が入らないから金がない、金がないからいい選手が取れない、と悪循環になっていった。
特に九州・福岡に本拠をおいた西鉄ライオンズは、61年当時の資料では球団収入が2億7000万円、支出が3億5000万円で8000万円の赤字。いまの紙幣価値でいえば軽く10億円を超えるだろう。親会社からは「このままでは球団はやめなければいけない」という意見も出始めていたという。
追い詰められた西鉄・西亦次郎球団社長が注目したのが、アメリカのアメリカン・フットボールで採用されていた「ウエーバー式」の選手採用である。プロ志望選手を一度フットボール組織でプールし、それをシーズン最下位のチームから指名していく方法だ。プロスポーツはチームの戦力が拮抗していたほうが戦いは面白くなる。そして、面白くなれば観客も増え、全体の反映にもつながるという発想だ。さらに、それをメジャー・リーグも導入するという話が進んだことで、一気に話が具体化する。
「野球の本場、アメリカでしているのだから、日本もすぐしたほうがいい」
これは野球以外でもまん延していた戦後の日本的思考とも言えた。
それはさておき、西社長の提案に、まずは同じ悩みを抱えていたパ球団が乗った。64年7月24日のオーナー懇親会で、全員一致で賛成。その後、西社長を中心にセにも働きかけたが、セでは収入が安定し、自由競争をある意味、謳歌していた巨人、
阪神が最後まで渋る。
それでも65年4月22日、実行委員会でようやく合意。7月26日に正式に「ドラフト制採用」が議決され、第1回は、その年の秋と決まった。
<次回に続く>
写真=BBM