
盗塁のスタートとスライディングは特殊。快足を生かすことはできなかった
東洋大の桐生祥秀が、100メートルで日本人初の9秒台を出し、大いに話題になっている。それに関連し、過去の日本人スプリンターたちの歴史があちこちで紹介されているが、その中の1人に、「元プロ野球選手」の肩書きがあり、驚いた方もいるのではないか。
1964年東京、68年メキシコと2大会連続でオリンピックの100メートル日本代表選手となり、10秒1と当時の日本記録も持っていた
飯島秀雄である。
派手好みで、パフォーマンス好きでも知られた、映画会社大映社長であり、東京(のち
ロッテ)オリオンズの名物オーナー、永田雅一が「100メートルの日本代表が盗塁をしたら、みんな喜ぶだろう。守備もバッティングもさせなきゃいいんだから」と、野球はほぼ素人の飯島を68年秋のドラフトで9位指名(当時は茨城県庁所属)し、69年入団した。背番号は88。当時のシーズン日本記録85を塗り替えてほしいという永田の思いもあってだった。
飯島は間違いなく、球史最速のランナーだった。そして、確かに永田の思惑どおり、東京の本拠地・東京スタジアムの観客は飯島目当てに一気に増えたが、やはり短距離走と野球の盗塁では勝手が違う。小社の資料室に飯島の盗塁の連続写真があるが、ベースのかなり前からスライディングし、完全に失速してアウトとなったシーンだった。
最終的には3年間で23盗塁、17盗塁刺に終わり、失意の中で引退している。
完ぺきに走り専門。一軍では一度も打席に立たず、守備にも就かず、ひたすら代走起用だった。二軍では唯一
ヤクルト戦で打席に立ったというが、3球三振。1年だけロッテでランニングコーチをし、その後は球界から完全に離れている。
写真=BBM