中日の森野将彦が引退を表明した。2017年9月22日現在、通算1581安打。2000年代の黄金時代を支えたユーティリティーだ。今回は9月24日、ナゴヤドームでの引退試合まで、森野の野球人生を何度かに分け、紹介していきたい。 飛び道具がなかったゆえに
初本塁打を放ち、ヒーローインタビューを受けた森野。初々しい
1978年7月28日生まれの39歳。出身は神奈川。東海大相模高時代は強打者として鳴らし、97年ナゴヤドーム元年にドラフト2位で中日に入団した。
少年時代は地元の大洋ファン。「
遠藤一彦さんや斉藤明雄さんが活躍されていた時代ですね。横浜球場で中日戦も見たことがあると思いますが、正直、印象はあまりなかったです」という。
1年目の6月に一軍昇格し、8月29日の
ヤクルト戦(ナゴヤドーム)で初スタメン。ポジションはショートだった。そして、この試合で放ったプロ初安打が長身投手、ブロスからのホームランだ。
ただし、「これでプロでやっていける」という手ごたえや、感動は特になかった。
「ナゴヤドームで初めて試合に出て、捕手は古田(敦也)さんだし、ある意味、テレビに出ていたプロ野球選手と同じグラウンドに立っているのが信じられなくて、ただただ、圧倒されました」
1年目の97年は一軍13試合の出場。しかし、その後、98、99年の2年間、一軍出場はない。
「バッティングはまずまず自信があったんです。一軍でやっている選手を見ても、バッティングなら俺のほうがという気持ちがあったんですが、どうしても守備が足を引っ張った。短所が表に出てしまうくらいの守備だったんですよ」
打球スピードも捕球、スローイングの技術のレベルも高校時代とはまったく違った。それはすぐ実感したが、「最初は、うまくなり方が分からなかった。どこを目指せばいいのかも分からなかったんですよ」と苦笑した。
高校時代、守備に自信がなかったわけではない。ただ、それなりにできたから、逆に深く考えることがなかった。しかし、プロでは一生懸命練習をするだけでは、一軍レベルに到底届かない。
この時期の恩人が
仁村徹二軍監督だ。
「頑なにショートで使ってくれた。野球を教えるためだったんでしょうね」
ある意味、人より足が速い、人より守備がうまい、人よりバントがうまい……。そうであれば、もっと早く一軍に定着し、代走や守備固めで存在感を出したかもしれない。森野にはそれがなかったから一軍から呼ばれなかった。ただ、器用さゆえに、いつまでも便利屋的な扱いとなり、その枠組みから出られなくなった選手も少なくない。首脳陣、さらには自分自身の先入観となってしまうからだ。
いい悪いではないが、森野には“飛び道具”がなかった分、じっくり悩み、そして理解者である指導者により、じっくり内野守備の基本を教え込まれ、ベースをつくることができた、とも言える。
ライバルは立浪
2002年から一軍定着。ただ、当時の中日は同世代の先輩・
井端弘和がショート、
荒木雅博がセカンド、さらにサードにはクリーンアップも打っていたベテランの
立浪和義がいた。
森野は言う。
「この人を抜きたいというよりはポジションしか見えなかったですね。セカンドが空いているぞ、ショートが空いているぞって。荒木さん、井端さんはヨーイドンが同じくらいだから、抜きたいという感覚じゃなかったですね」
翌03年は打率.271。たまたまではない。以後、打席数は別とし、11年までの最低打率は05年の.268。入団時からの打撃に対する自負は、決して、うぬぼれではなかった。
05年は、初めて100試合以上の出場を果たした年でもある。ただし、ポジションは三塁と外野の併用だ。逆に不動の三塁手だった立浪は、外野も守っている。
ユーティリティーとして出番を増やしてきた森野に、初めて「定位置」が見えた年でもあり、森野自身、「初めて明確に『この人を超えなきゃ』と思ったのは、サード時代の立浪さんだけです」と語っている。
ライバル心をあおったのが、04年に監督に就任した
落合博満だった。森野は言う。
「落合さんには守備の大切さをもう1回教えられました。それまでも意識はあったんですが、甘かった。こっぴどく守備練習をさせられましたから。当時、落合さんに言われていたのは、『立浪に勝つには守備しかねえぞ』でした。守備をやらなきゃ、うまいと思わせなきゃと思いました。このあたりが僕のターニングポイントですね」
立浪の通算安打は2480本、04年の打率は.308だった。落合監督も、とんでもないライバルを設定したものだが、それを「超えなきゃ」と思った森野もすごい。
<次回に続く>
写真=BBM