日本球界の最先端を走っていた球場
後楽園球場ラスタイヤーにリーグ優勝を飾った巨人。後ろには東京ドームが見える
後楽園球場が閉場してから今年で30周年を迎える。
昭和があと1年あまりで終わりを告げようという1987年11月に、解体工事が始まった。翌88年シーズンから東京ドームがオープン。日本球界はドーム野球へと突入していった。
ドームができたことによって何かと利便性が増したのは確かだろう。何と言っても雨による試合中止の心配がなくなった。地方から出てくるファンにとっては、一日千秋の思いで待っていたジャイアンツ戦が確実に見られるようになったのは進歩である。プレーヤーにとっても気象条件の悪さの中で試合をしなくてよくなった。
一方で、こんな声も聞く。
「東京ドームには太陽の光や風、照明等の影、季節の移り変わりがない。だから何年かして、映像を見返した場合、それがいつのどのゲームだったか、思い出すことが難しい」
後楽園球場と東京ドームを分けるもの。それは昭和と平成の野球であるのと同時に、球場にまつわる記憶の濃密さだろう。
時代とともに野球を取り巻くハード面も変わる。ドーム球場の完成がこの30年の中では最大級の変革だったが、そのドーム建設によって役割を終えた後楽園球場も、日本球界の先端を走っていた。
内野天然芝、電光スコアボード、人工芝、オーロラビジョン。
内野天然芝は9連覇元年というべき65年に導入された。ダイヤモンドの内側に天然芝が敷かれた当時の光景は、やはりほかの球場とはひと味もふた味も違う輝きを放っていた。
その天然芝もやがて人工芝に変わった。
76年には日本初の人工芝が導入された。人工芝ヒットと称される高く弾むボール、イレギュラーバウンドの少なさ、降雨中止の減少など、人工芝は人工芝で当時の野球に進化をもたらした。
長嶋茂雄引退と切り離せない電光掲示板
『ベースボールマガジン』11月号では後楽園球場を中心に、今は亡き球場を特集している
だが、時代は巡る。天然芝の価値が再認識され、マツダスタジアム、Koboパーク宮城、ほっともっとスタジアム神戸の内野天然芝が最近の球界のトレンドとなっているのは周知の通りだ。
電光掲示板は、
長嶋茂雄引退試合と切り離せない。「わが巨人軍は永久に不滅です」と言った長嶋の背後に、巨大なスコアボードが写り込んだ、あまりにも有名な一枚の写真は、不朽の名場面として日本球界に永遠に残っていくだろう。
巨人のラインアップには、9連覇の同志というべきレギュラーメンバーが名を連ねていた。これは作為的につくったものではなく、引退試合の試合終了時点のメンバー。すなわち
川上哲治監督が、試合そのものは消化ゲームだったにもかかわらず、長嶋引退試合に敬意を表し、最後の最後までほぼベストメンバーで戦った。
継投の時代に合わせて、70年代中期にはリリーフカーが後楽園球場に登場、80年からその運転手としてミス・リリーフカーと称される女性が起用されたのも、バブルの時代に向かって彩りを増していく時代を象徴していた。
10月2日発売の『ベースボールマガジン』11月号では、この後楽園球場を中心とした「ロストボールパーク、哀愁の球場物語」がテーマ。さまざまな角度から後楽園にメスを入れ、読者の皆さんの記憶に訴えるような内容となっています。
文=佐藤正行(ベースボールマガジン編集長) 写真=BBM