
11月13日の陰山監督就任会見(中央左)。握手しているのが鶴岡
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月17日だ。
1965年11月5日、日本シリーズで
巨人に敗れた南海・
鶴岡一人監督は、翌6日に記者を集め、「もうワシも年だ(この時点で49歳)。監督を退きたい」と語った。
46年選手兼任で監督に就任し、南海黄金時代を築き上げた名将だったが、球団は強く慰留することもなく、後任としてヘッドコーチの
蔭山和夫に白羽の矢を立て、13日には鶴岡同席で就任会見を行った。水面下では、鶴岡と球団フロントの衝突とともに、鶴岡のもとに東京、サン
ケイから監督就任の誘いもあったと言われる。
実際、鶴岡が16日に「腹は決まったよ」と記者に語り、翌17日16時に都内で会見を開き、自分の今後について説明することを明らかにしていた。
その17日、午前5時20分だった。鶴岡は電話で起こされた。同日未明、蔭山が死んだという知らせだった。
医師の診断は「急性副腎皮質機能不全」。いくつかの要因が絡み合った突然死で、当時の記事では「ぽっくり病」とも書かれている。まだ38歳だった。
“親分”と呼ばれ、長く絶対的存在だった鶴岡の退任でチーム内は揺れ、蔭山新体制への不安や批判の声もあったという。生真面目な蔭山はすべてをまともに受け止め、さらに、なかなか前に進まぬ球団主導の新コーチ人事にイライラを募らせていたらしい。
不眠に苦しみ、毎夜アル
コールを痛飲。さらに精神安定剤も飲んでいたようだ。この日も応接室で1人ブランデーを飲んでいたが、寝室に上がってこないことを心配した夫人が様子を見に行くと、ソファでこん睡状態になっていた。すぐ病院に運ばれたが、意識不明のまま午前4時死亡が確認された。
葬儀の席で「ワシが殺したようなもんや」とつぶやいた鶴岡監督は、球団、選手からの復帰要請に応え、20日に会見を開き、監督復帰を発表。
「蔭山君の焼香をしながら、カゲ、ワシがもう一度引き受けるから安心しろ、と声を掛けた」
何度も言葉に詰まりながら語った鶴岡監督だったが、自身が話を終え、新山球団代表が話し始めると、突然、涙を流し始めた。ハンカチでぬぐってもぬぐっても止まらない、大粒の涙を……。
写真=BBM