背番号は選手たちの「もうひとつの顔」だ。ある選手が引退しても、またある選手がその「顔」を受け継ぐ。その歴史を週刊ベースボールONLINEで紐解いていこう。 日本初の永久欠番も
日本プロ野球の歴史は、巨人の創設から始まっている。その80年を超える歴史には、背番号のエピソードも豊富だ。
永久欠番を日本で初めて制定したのも巨人だ。ただ、それは近年のように華々しいものではなく、悲しい物語から始まった。
1947年6月。外野手の黒沢俊夫は「痔が悪い」と病院へ行くと、腸チフスと診断された。そして1週間後の23日、急死する。
戦時下の44年、巨人は最大の危機を迎えていた。75年の最下位や2017年の13連敗などとは次元が違う。多くの主力選手が応召などで退団し、選手が6人しか残らなかったのだ。このとき急きょ補強を行い、金鯱から移籍してきたのが黒沢だった。黒沢は四番打者として、戦後は一番打者として打線を引っ張る。ホームスチール通算10個は歴代2位。穏やかな性格で、チームメートからも慕われた選手だった。
そんな黒沢の死を悼んで、7月9日、プロ野球が再開された46年から黒沢が着けていた「4」は、創設期のエースで44年に戦死した
沢村栄治の「14」とともに永久欠番とすることが発表された。余談だが、黒沢が加入した44年は戦時下の統制で背番号が禁止されていた。日本プロ野球の歴史において唯一、背番号のないシーズンだ。
その後、“打撃の神様”
川上哲治の「16」、400勝投手・
金田正一の「34」、“ミスター・プロ野球”
長嶋茂雄の「3」、世界のホームラン王・
王貞治の「1」が永久欠番となっている。6個の永久欠番は12球団でダントツの数字。特に“ON”の「3」と「1」は、今も圧倒的な輝きを放っている。
「3」は長嶋の前には
千葉茂が着けていた背番号で、初代は日本初の三冠王・
中島治康。中心選手に受け継がれていた背番号と言えるだろう。王の「1」は好打者・
南村不可止(侑広)から。この2つの背番号は他の球団でも中心選手が着ける傾向がある。
エースナンバーは「18」だが……
1ケタの背番号には、生え抜きの名選手だけでなく、FA加入の錚々たる打者が並ぶ。10番台は投手の番号だが、例外は「10」。76年に移籍してきた
張本勲に続き、
駒田徳広、
阿部慎之助ら左の強打者が背負っている。
投手では
別所毅彦、
斎藤雅樹らの「11」、
スタルヒン、
藤本英雄、
槙原寛己らの「17」、
小林繁、
上原浩治らから
菅野智之が受け継いだ「19」などが主力だが、巨人のエースナンバーといえば「18」だ。その地位は
藤田元司、
堀内恒夫が確立し、桑田真澄を経て現在は
杉内俊哉が着けているが、杉内は故障のため15年を最後に一軍登板なし。その完全復活が待たれるところだ。
20番台には投打に好選手がそろう。リリーフ専門投手の元祖で“8時半の男”と呼ばれた
宮田征典の「24」は
中畑清によって好打者の背番号となり、
高橋由伸監督が現役時代から一貫して背負っている。
反骨の右腕・
西本聖の印象が強い「26」は、現在は左腕・
内海哲也の背に。戦前に内海の祖父である五十雄が着けていた番号を受け継いだものだ。西本がライバルとして挑み続けた“怪物”
江川卓の「30」も強烈なインパクトを残している。
それ以降の大きな背番号で特筆すべきは「55」だろう。“50番トリオ”で人気を博した若手時代の
吉村禎章が着けていた背番号だが、この「55」を世界に知らしめたのは“ゴジラ”
松井秀喜だ。長らく日本記録だった王のシーズン55本塁打にあやかって1年目から現役ラストイヤーとなった2012年のレイズ時代以外は背負い続け(レイズでは「35」)、日米通算507本塁打。今や多くのチームで強打者が着ける背番号に成長している。
写真=BBM