オフに戦力外通告を受け、いまだ来季の所属先が決まらない男たちがいる。その中には前巨人の村田修一ら“大物”もいるが、過去にも実績のある選手が同じ憂き目にあった。しかし、どん底から見事にはい上がった例も多々ある。不屈の闘志で、ふたたび輝きを放った男たちを紹介していく。 力を信じ、求めてくれた楽天
楽天入団会見時の山崎
オリックスを自由契約となった36歳の長距離砲に、待ちに待ったラブ
コールが届いた。それも託された背番号は「7」。熱き魂の男、
山崎武司が意気に感じないわけがなかった。
「一度は死んだ身だから、山崎ってまだやれるんだと言ってもらいたい」
パンチ力と経験に裏打ちされた勝負強さは健在だと自負している。何より、起伏に満ちた野球界を戦い抜いてきたその生き様こそが仙台に芽吹いた新興チームの大きな力となる。
2004年シーズンは出場62試合、打率.245で、4本塁打に終わった。不完全燃焼の1年を過ごした山崎は「野球を18年やってきたが、今年は野球をやらせてもらえなかった。ヨーイドンでマイナスからのスタートだったからね」と自嘲気味に思い返した。
体力の衰えを指摘する声のほかに、首脳陣との確執もウワサされた。何度も「引退」の2文字が脳裏によぎった。
「でも、家族や支えてくれた人たちに相談して、また現役でやりたい気持ちが湧いてきた」
そんな自分の力を信じ、求めてくれたのが楽天だった。
中日時代の1996年に39本塁打を放ち、本塁打王とベストナインに輝いた。98年には最多勝利打点、99年はリーグ優勝を支えた。通算本塁打は211本を誇る。そんな輝かしい実績を持つ男が、05年の年俸は5000万円プラス出来高(金額は推定)で契約を結んだ。04年と比べ7000万円のダウンだが、「カネのことはどうでもいい」と迷いはなかった。
「ファンをドキドキさせるようなプレーをしたい」
最後にもう一花咲かせたい……その一念だけがベテランの体を突き動かした。
野村監督との出会い
2007年、本塁打王、打点王の2冠を獲得した山崎
楽天には、かつて一緒に汗を流した前中日の
関川浩一やオリックスの同僚が集った。さらに新球団の歴史を刻むことにやりがいを感じたという。最大の魅力は色眼鏡で見られることなく、ゼロから横一線でのスタートを切れることだ。指揮を執る
田尾安志監督も実力本位での選手起用を明言していたが、移籍1年目、25本塁打と復活の兆しを見せた。
そして、06年、
野村克也監督が誕生したことで、山崎はさらに能力を伸ばした。それまで「来た球を打つ」シンプルな打撃スタイルだった山崎に、この名将は「配球を読む」ことを伝授した。
すると、39歳を迎える07年、すさまじいばかりのホームラン量産を見せた。4月1日のオリックス戦で第2号満塁弾を放つと、4月7、8日の
ロッテ戦、24、25日のオリックス戦の2試合連発など4月終了時点で9号。さらに5月9日の
西武戦で2本目の満塁弾、交流戦に入って5月17日の巨人戦では自身2度目、球団初となる1試合3本塁打。5月は月間で実に12本塁打を叩き出し、月間MVPにも選ばれた。
最終的には自己最多の43本塁打、108打点で2冠王を獲得。中日時代の96年以来、実に11年ものブランクを挟んでのホームラン王獲得は、史上最長であった。
「今までにない野球の楽しさを感じている」とシーズンを通して探究心を絶やすことのなかった山崎。野村監督の求める「考える野球」へのひたむきさや、元来備えていた闘争心が2年連続最下位から4位へチームを引き上げた。
山崎は翌08年に26本、09年は39本、そして10年も28本の本塁打を放つなど、不惑を超えても衰えぬパワーで「中年の星」と呼ばれた。
通算400号本塁打を達成した11年オフに楽天を戦力外となり、最後は古巣の中日でユニフォームを脱いだが、27年におよぶ野球人生は、戦力外による“出会い”があればこそだったと言えるだろう。
写真=BBM