大物選手がFA権を行使して移籍してくる代償として、その大物選手の旧所属球団が自分を指名する――。それは、チームが28人のプロテクトリストから自分を外したから。しかし、それで出場機会が飛躍的に増えるケースもある。人的補償で移籍した印象深い選手を取り上げていく。 さわやかに新天地へ
「明日は我が身」といったらいいのか、あるいは「諸行無常」というべきか――。
1999年オフに
広島からFA宣言し、三顧の礼をもって巨人に迎え入れられたときには、
江藤智はよもやこのような形で去ることになるとは、夢にも思わなかったはずだ。
広島時代は本塁打王2回、打点王1回、ベストナイン5回。94年8月には月間16本塁打の日本タイ記録(当時)も樹立するなど、主砲として活躍した。
FAで巨人入りした2000年には、チームの優勝決定につながる同点満塁弾を放ち、最多勝利打点のタイトルを獲得するなど、勝負強さを発揮。この年から2年連続で30本塁打をクリアし、ベストナインも続けて受賞と、「第2のプロ野球人生」は順調そのものに見えた。
ところが02年以降は精彩を欠き、同じ三塁手の
小久保裕紀が加入した04年からはスタメン出場が激減。通算350本塁打にあと1本と迫っていた05年は、7月30日の
中日戦(東京ドーム)で放った本塁打性の打球が天井に当たってレフトフライになるなど、とうとう1本もホームランを打てずに終わってしまう。オフに西武から
豊田清がFAで巨人入りすると、その人的補償のプロテクトリストから江藤の名前が漏れたのも、致し方ないことだったのかもしれない。
FAの人的補償という、思いもよらぬ形で巨人を去ることになっても、江藤は恨み言一つ言わなかった。FA権を行使して移籍した選手が、人的補償で他球団に移るのは、これが初めて。巨人入団から6年の歳月が流れていたとはいえ、かつては
長嶋茂雄監督から背番号33を譲り受けるなど、下にも置かない厚遇を受けたことを思えば、屈辱的といってもいい。
それでも江藤は「巨人での6年間はいい思い出ばかりでした。西武へ行って、少しでも長く野球をやりたい」と、さわやかに新天地へ旅立っていった。
西武ではもはやレギュラーを張るだけの力は残っていなかったが、06年4月15日の
ロッテ戦(インボイス)では、36回目の誕生日を自ら祝う移籍後初アーチ。これが正真正銘、史上19人目の通算350号となった。
08年には西武が日本一に輝き、在籍した3球団すべてでV戦士となって、09年限りで現役生活にピリオドを打った。
写真=BBM